直球洋館

2024年

カテゴリ: ロシア

◆1919年


■1919年1月28日 処刑
パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公
(皇帝の父の叔父)
ドミトリー・コンスタンチノヴィチ大公
(皇帝の父のイトコ)
ニコライ・ミハイロヴィチ大公
(皇帝の父のイトコ)
ゲオルギー・ミハイロヴィチ大公
(皇帝の父のイトコ)

◆1918年


■1918年1月


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1918年1月20日 皇帝から妹クセニア・アレクサンドロヴナ大公女への手紙

君の手紙とてもうれしかった。
ホテルを経営して我々の間で職務を配分するという案は結構だと思いますが、君らの家で本当にそんなことができるのかな。

年が明けてからアナスタシア以外の子供たちは風疹にかかりましたが、今ではみんな良くなりました。
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1918年1月22日 皇后からアンナ・ヴィルボワへの手紙

信じてちょうだい。
神は今もあなたをお見捨てになってはおられません。
神は憐れみ深く、我らの愛する祖国を救ってくださいます。
最後までお怒り続けられることはないのです。
旧約聖書のイスラエル人が受けたあらゆる苦悩を思い出してごらんなさい。
彼らは神を忘れたがゆえに、幸福も福祉ももたらしえなかったではありませんか。
彼らは理性を失っていたのです。
すべての人が理性を失い、悪の王国はまだ過ぎ去らず、無実の人々の苦しみは絶頂に達しています。
我々はみな罪を犯したので、天にまします父がその子らに罰をお与えになっているのです。

ロシア人の性格の中で不思議なのは、人間がたちまちにして下劣に悪く非情に無分別になってしまうばかりでなく、同じように急に別人のようにもなれるという点です。
これがいわゆる性格の弱さなのでしょうが、本質的には無知な大きな子供なのです。
でも私は固く信じて疑いません。
神はやはり救ってくださる。
それがおできになるのは神だけだと。
いずれは清められ、生まれ変わるでしょう。
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■1918年2月


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1918年2月6日 皇后からボリース・ニコラーエヴィチ・ソロヴィヨーフへの手紙

※この手紙は暗号で書かれていた

あなたはマリア・ラスプーチナの夫となられました。
主があなたがたの結婚を祝福し、お二人に幸福をお授けくださいますように。
あなたがマリアを大事にし、この邪悪な時代に邪悪な連中から守っておあげになるものとしんじています。
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1918年2月26日 皇后から男友達への手紙

ドイツ軍が迫っていて、ロシアにとって恥辱的・破壊的な講話が結ばれようとしています。
髪の毛が逆立つ思いです。
私が思うに、この伝染病はドイツにうつり、そこでもっと危険で悪い状況を作り出すでしょう。
ロシアにとってたった一つの救いはここにあると思います。
他の国では人々が文化的ですが、我国ではそうではありません。
自尊心などとっくに踏みにじってしまったのです。
でも他の国々だって過去にこういう時代を体験し、それを切り抜けたのです。
すべてが繰り返される。
新しいことは何もないのです。
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皇帝の日記

1918年2月20日 
休戦期限が過ぎて、ドイツとの戦争が再開された。
だが我方には前線に何もなく、軍隊は動員解除され、大砲や弾薬は運命のなすがまま。
恥辱と恐怖!

1918年2月25日
ソヴナルコムを自称するボリシェビキはドイツと屈辱的条件で講和に応じた。
敵軍が進撃中で、それを阻止する手段がないからだと言う。
なんたる悪夢!

1918年2月27日
3月14日で式部職部門が閉鎖されることになった。
自己資金の使用も各人月600ルーブルに制限されるため、食費や使用人への給与を切り詰めざるをえない。

1918年2月28日
切り詰め生活のために、多くの従僕と別れざるをえない。
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■1918年3月


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1918年3月8日 妹クセニア・アレクサンドロヴナ大公女から皇帝への手紙

我々のクリミアの領地は、他の人の領地と同様に国有化されました。
ある素晴らしい日に、土地国有化に関するコミサール補佐が来ました。
もはや領地は我々に属していないので、我々の所に移住すると宣告しました。
館から追い出されなかったのでまだマシです。
世の中は楽しいことばかりではありません。
領地に関する従業者委員会が設立され、それがすべての案件を決定します。
すべての蔵が封印され、銀行小切手などが没収されました。
お金がなくて生活するのが困難で、食料品にも非常に悪質です。
それにもかかわらず、あなた方と同じように意気消沈していません。
神はもっと幸福な日々がを与えてくださるでしょう。
苦は楽の種です。
最悪なことは、恐るべき敵意と憎しみ、そして復讐の渇望です。
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1918年3月15日 皇后からアンナ・ヴィルボワへの手紙

祖国がどんなに苦しんでいることか。
私はあなたよりもずっと深くこの国を愛しているのですよ。
かわいそうに、内からさいなまれ、外からはドイツにさんざんやられて、領土の大部分を譲り渡してしまった。
しかもお膳立て革命の間に、戦いを交えることなしにです。
しかるべき導き手を持たなかったのはあの人たちの罪じゃありません。
それでもやはりイライラします。

あたなと別れてからまもなく一年になります。
でも時間がなんだと言うのでしょう。
人間からすべてを奪うことはできても、霊を奪うことはできません。
悪魔は一歩ごとに罠を仕掛けています。
我々は断固として悪魔と闘わねばなりません。
いたるところに神の御手が感じられます。
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皇帝の日記

1918年3月13日
食費削減を知った善意の人々から、バター・コーヒー・ビスケット・ジャムを受け取った。
なんという感動!

1918年3月15日
不幸な我が祖国はいつまで内外の敵に苦しめられ、引き裂かれていなければならないのか。
これ以上はもう我慢しきれない気がする。

1918年3月30日
毎日手を変え品を変え、びっくりするような話ばかり。
コヴィリーンスキーがモスクワの中央執行委員会から受け取った文書を持ってきた。
別館コルニーロフ館に住む我々の関係者全員をこちらに移すという。
すぐさま女性使用人たちの部屋から別の部屋への引っ越しが始まった。
新来者の部屋を作るためである。
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■1918年4月25日 皇帝一家トボリスクからエカテリンブルクへ移送決定

■1918年4月26日 皇帝・皇后・三女マリアが先発

■1918年5月23日 残りの家族オリガ・タチアナ・アナスタシア・アレクセイが後発


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1918年4月23日 委員会一同の報告書

ヤーコブレフ・コミサール
ヤーコブレフの秘書
館の警備隊コヴィリーンスキ隊長
警備隊委員会マトヴェーエフ議長
エカテリンブルグ執行委員会アヴデーエフ代表

前ツァーリ一家は自由館〔トボリスク知事公館〕に監禁されている。
白亜の広壮な建物で、道から見ると二階、庭から見ると三階。
大きな内庭には薪が積み上げられているが、これは館の住人たちが気晴らしのため自ら挽いたり割ったりしているものである。
特に目覚ましい働きぶりを示しているのはニコライであう。
廊下は多数のトランクでふさがれている。
廊下の左右にいくつも部屋が並び、食堂もある。
二階にロマノフ一家が住み、その上の天井の低い部屋に使用人たちがぎっしりと詰め込まれている。

ヤーコブレフ同志が「満足していますか?苦情はありませんか?」尋ねると、ニコライは両手をすり合わせ薄笑いを浮かべて「大いに満足しています。大いに」と答えた。
このやりとりの間、娘たちは共産主義政府の代表を物珍しげに眺めていた。
委員はアレクセイの様子を見たいといったが、ニコライは言葉を濁した。
「アレクセイは重病人なので」
「私は様子を見なければならないのです」
「わかりました。ただしあなた一人だけにしていただきたいのですが」
ヤーコブレフ同志がニコライと一緒にアレクセイの部屋に入った。
アレクセイは内出血でひどく悪い容態だった。
ヘッセンの家計の遺伝病である。
黄色く痩せた男の子は瀕死の病人のように見えた。

アレクサンドラは来訪を受ける用意をしたいなかった。
そこでヤーコブレフ同志が後に再訪した。
アレクサンドラはいかにも王族らしくふるまい、威厳を持って彼を迎え、愛想よく質問に答え、しばしば微笑した。
アレクセイ訪問ももう一度行われた。
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1918年 ヴァシーリ・ヴァシーリヴィチ・ヤーコブレフ コミサール 

移送開始を4月26日と定め準備万端整えてから、私は元皇帝が家族・側近とともに住むトボリスク知事公館に赴いた。
「市民ロマノフ、人民委員会議の指示によりあなたをトボリスクから他へ移すことになりました。出発は明日午前4時と決まりましたので、それまでに準備を整えていただきたい」
ロマノフは仰天して不安そうに尋ねた。
「どこへ連れて行くのですか?」
「私自身も滞在地は知らないし、指示は道中で受け取ることになっている」
「私は行きません」
そのとき妻アレクサンドラが部屋に入って来て、ことの次第を知って叫んだ。
「この人になんということをなさるの!病気の息子がいるのですよ。この人は行くわけにはいきません。私たちと一緒に残るべきです!」
「家族を離ればなれにするということはまったく問題になっていない。家族全員が移送されることになっているからだ。しかし移動には一定の困難が伴うので、病気のアレクセイは春になって氷が溶け、トボリスクからチュメーニまで汽船で運べるようになるまでトボリスクに残して置くことに決まった。家族のうち誰がニコライに同行し、誰がアレクセイと共に春まで残るのかは、あなた方自身の決定に委ねられる」
ロマノフは家族や友人たちと二時間ほど出発問題を討議していた。
ニコライと同行するのは妻アレクサンドラ・娘マリア・ドルゴルーコフ公爵・ポートキン教授・デミドヴァ女官・近侍一名・従僕一名で、他の娘たち・アレクセイ・タチーシチェフその他40名ほどが春までトボリスクに残ることになった。
アレクサンドラが息子と別れて夫と共にトボリスクを離れる決心をしたことに、私はいささか驚いた。
「一人だけであそこにいると、あの人がロクでもないことをしでかすんじゃないかと心配で」
どうやらアレクサンドラはご亭主の理性と節度をあまり高く評価していないらしい。

翌日朝4時ちょうど、我々は出発した。
私が連れて行った部隊は全部で35名、騎馬者が15名・徒歩が20名だった。
様々な措置を講じたおかげで、移動は非常に早く終わった。
乗り継ぎは全部で8回だったが、どこにもすでに馬をつけたトロイカが一列に並んで我々を待っていた。
この困難な猛スピードの移動にもロマノフはほとんど疲れを見せなかった。
だいたいこの一年の間に彼は健康になった。
薪割り、雪かきなど、戸外で大いに働いた。
手にはタコができ、元気で気分爽快、安心立命の境地に達したように見えた。
アレクサンドラは疲れた様子だったが、そういうそぶりを見せないように努めていた。
彼女は気位が高く、とりすました態度を崩すまいとしていた。
娘マリアは年齢不相応に発達の遅れた子で、広い意味での生活というものをまったく知らない。
母親の影響を強く受けている。

チュメーニからは列車で出発した。
警備はすでに160名まで増強された。
部隊全員がロマノフ一家に対して節度ある態度を保ち、無礼な屈辱的な言葉は一言も使わなかった。
その一方で我々の態度は率直で、すべての市民に対する態度と同様のものだった。
ロマノフは状況を飲み込んで、同じように率直な態度を取るようになった。
道中ロマノフは上機嫌だった。
彼は三つの問題、家族・天候・食事に最大の関心を寄せているようだった。
実際に彼は家族を愛し、家族にとても気を配っている。
我々は政治の話をまったくしなかった。
彼自身が政治問題にはまったく興味がないようだった。
思考全体が、極めて世俗的な狭い家庭内の関心事の範囲内を堂々巡りしているのだ。
たった一度だけ我々の会話がその枠をはみ出たことがあった。
教会のそばを通り過ぎたとき、非常に信心深いロマノフはこういう時はいつも十字を切る。
教会を通り過ぎたとき、ロマノフは何やら宗教について語った。
具体的にどんなことだったか、今は思い出せないが。
私はそれに答えて、「自分は宗教には縁なき衆生であるけれども、他人に対しては信教の完全な自由を認める。各人が自分の好きなように信じれば良いのだ」と言った。
するとロマノフはこう叫んだ。
「これは驚いた。実は私の持論もまったくそれと同じだ。信教の完全な自由を私も認める!」
冗談を言っているのかわからずに、私は彼の顔をまじまじと見つめた。
だがその顔は天真爛漫そのもので、隠された意図などまったくなかった。

この旅行から私はロマノフはびっくりするほど視野の狭い人間で、こういう人間はめったに見られるものではないという印象を受けた。
アレクサンドラはこれとは全然別のタイプだった。
油断のならない気位の高い女性で、夫に対して強い影響力を行使する。
道中ずっと引きこもりがちで、何日も自分の個室を出ず、我々からは一片の厚意さえ受け入れようとはしなかった。
そのためお笑い草も生まれた。
車両内の通路は非常に狭く、二人が鉢合わせすると一方が脇によって道をあけなければならない。
アレクサンドラは警備兵にそうさせるのを好まなかった。
だから洗面所に行くため、毎朝4~5時に起きていた。
洗面所から出る時に警備兵がいると、引き返して警備兵が通路から出て行くまで洗面所に閉じこもっていた。
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皇后の日記

1918年4月23日
ベビー〔アレクセイ〕激痛のため、夜眠れず。
午前中新任のコミサールが我々に会いにくる。
知的で極度に神経質な労務者・技術者等々という印象。

1918年4月25日
昼食後、ヤーコブレフ・コミサール来訪。
ボリシェビキの命令により、私たち全員を連れ去らなければならないと言う。
ベビー〔アレクセイ〕の容態が悪いので、ニコライだけ連れ出したいと言う。
ベビーと共に残るか、ニコライと一緒に行くか、決断を迫られたが一緒に行くことになった。
ニコライの方が私をより必要とするだろうし、どこへ何のために行くのかわからないのでは危険すぎるから。
マリアは私たちと一緒に行き、オリガがベビーの世話をして、タチアナが家事をして、アナスタシアはみんなを励ましてくれるだろう。
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皇帝の日記

1918年4月22日
ヤーコブレフ・コミサールがモスクワから当地に到着したことを知る。
彼は別館コルニーロフ館に入居。
家宅捜索にくると予想して、子供たちは手紙を全部焼いた。
マリアとアナスタシアは日記まで焼いた。

1918年4月23日
午前10時半、コヴィリーンスキーがヤーコブレフ・コミサールおよび随員一同と共に現れた。
ホールで娘たちと一緒に会う。
11時ごろ来ると思っていたので、アリックスはまだ支度していなかった。
アレクセイの部屋に立ち寄り、ほとんど走るようにして立ち止まることなく部屋を見て回り、迷惑をかけたと詫びて階下へ去った。
半時間後、彼はアリックスに会うため再び現れ、またせかせかとアレクセイの部屋に行って、階下にさった。

1918年4月25日
ヤーコブレフとコヴィリーンスキーがやってきて、行き先は言わずに私を連れ出す命令を受けたと通告。
アリックスはマリアを連れて同行することを決断。
他の子供たち、病気のアレクセイを残していくのは非常につらい。
ヤーコブレフは、3週間ほど経てば我々は再会できるだろうと語った。

1918年4月26日
朝4時、愛する子供たちに別れを告げて四輪馬車に乗り込んだ。
4度馬を取り換え、130キロを走破。
イェーヴレヴォ村に到着して一泊。
大きく清潔な家に入れられ、持参の簡易ベッドで眠る。

1918年4月27日
ポクロフスコエ村で馬を替えるため、ちょうどラスプーチンの家の反対側に長く止まった。
窓から覗いている彼の家族全部の姿が見えた。
あまり清潔ではなかったが、列車に乗り移れてうれしかった。
我々自身も荷物も、ひどく薄汚くなっていた。

1918年4月28日
駅名から列車はオームスク方面に向かっていると推察。
オームスクの先はどこへ?モスクワか?ウラジオストクか?

1918年4月29日
朝、気がつくと反対方向に走っている。
オームスクが我々の通過を望まなかったのだと判明。
我々はかなり自由になり、みんな元気になる。
1918年4月30日
素晴らしい温暖な日。
8時40分エカテリンブルクに到着。
1時間半ほど停止したのち下車。
ヤーコブレフが我々の身柄を当地の州委員に引き渡し、私と自動車に乗り人気のない街路を通って、我々のために準備されたイパチェフ館に向かう。
同行者と荷物もおいおい到着した。
立派で清潔な家。
小庭に面した窓々があって、町が見渡せる。
四つの大きな部屋が我々に割り当てられた。
アリックス・マリア・私の3人が寝室、バスルームは共通、衛兵は食堂のそばの二部屋に収まった。
風呂とトイレに行くには、兵営の前を通り抜けなければならない。

荷物をほどいて整理を始められるようになるまでずいぶん長くかかった。
検査はまるで税関のように厳しく、アリックスの薬箱のガラス瓶の最後の一本にいたるまで調べられた。
4時半にホテルから運ばれたディナーをとり、片付けが終ってからお茶と軽い食事。

1918年5月8日
衛兵の大多数はラトヴィア人で、さまざまなジャケットを着て、ありとあらゆる種類の帽子をかぶっていた。
彼らは独特のしゃべり方をし、仲間同士で騒ぎ回っていた。
食事はすばらしく盛りだくさんで、時間通りに出た。
当直室からピアノや歌声が聞こえた。
数日前我々の部屋から当直室に移したピアノを弾いているのだ。

1918年5月14日
トボリスクからの手紙を受け取ってみな大喜び。
午前中はそれぞれの手紙を見せ合って過ごす。
快晴温暖。
我々用のサモワールが購入された。
散歩は一日に一時間しか許可されないと言う。

1918年5月15日
朝 歳を取った佐官がやって来て、すべての窓を全部石灰で塗りつぶした。
とてもいい天気なのに、部屋の中は薄暗くなった。
食堂だけは少し良くなった。
窓を外からふさいでいたカーペットがはずされたからである。

1918年5月19日
50歳まで生きながらえた。
実でも不思議な気がする。
子供たちはトボリスクから出発したのだろうかと不安になる。
1918年5月23日
子供たちはやっとこの家に到着した。
列車は夜中の2時から当駅に停車していたというのに。
子供たちと再会し、4週間の別離と消息不明ののちに抱擁する喜びは絶大。
互いにあれこれ尋ねたり答えたりで際限がなかった。
こちらからの手紙もあちらからの手紙も、ほんの一部しか届いていなかった。
昨夜降った雪が一日中残っていた。
ベッドや必要な品々が駅から運ばれてくるのを夜まで待ったが、とうとうこなかったので娘たちはみんな床の上で眠らざるをえなくなった。
アレクセイがヒザを打撲してしまい、夜通し激痛にさいなまれたので、我々もろくに眠れなかった。

1918年6月2日
すばらしい好天で厚い。
こんな具合に閉じ込められて庭に出て新鮮な空気の中で過ごすこともできないのは、やりきれない。
監獄体制!

1918年6月4日
室内は蒸し暑い。
激しい雷雨。
アレクセイはずいぶん良くなり、ヒザの腫れも引いた。
私は足と腰が痛くてよく眠れず。

1918年6月6日
終日痔痛に悩む。
湿布を当てやすいようにベッドに横たわる。

1918年6月9日
愛するアリックスの誕生日を、足その他に激痛をかかえてベッドで過ごす。
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■1918年6月13日 皇帝の弟ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公処刑


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皇帝ニコライ2世の日記

1918年6月13日
アヴデーエフが来て、出立準備を要請した。
州ソビエトはアナーキストの行動を危惧しており、ここを去れなければならない、行き先はおそらくモスクワだとのこと。
さっそく荷造りを開始、野営のような状況で過ごした。
結局アナーキストは逮捕され危険がなくなったので、我々の出発も取り消し。
大騒ぎで支度したのに、がっかり。

1918年6月18日
室外も室内もひどい炎暑。
昨日からハリトーノフが我々の食事を調理してくれている。
食糧は日に二回運ばれてくる。
娘たちが彼から料理を習い、夜に粉をこね朝にパンを焼いている。
けっこううまい。

1918年7月13日
暖かく心地よい天気。
外部からのニュースは皆無。
アレクセイがトボリスク以来初めて入浴。
ヒザはだんだん良くなってはいるが、まだ完全に伸ばすことができない。
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皇后の日記

1918年7月13日
美しい朝。
動き回ると腰が痛むので、昨日同様一日ベッドに寝て過ごす。
ベビー〔アレクセイ〕はトボリスク以来初めて入浴。
一人でなんとか浴槽に入ったり出たりして、ベッドの上り下りも自力でやったが、まだ片足でやっと立てるだけ。

1918年7月14日
美しい夏の朝。
腰と足の痛みでろくに眠れず、またもベッドで一日を過ごす。
終日レース編みと一人トランプ。

1918年7月15日
灰色がかった朝、のち陽光。
掃除婦が床掃除に来たので、大部屋の寝椅子で昼食。
ベビーは二度目の入浴。

1918年7月16日
灰色の朝、のちに陽光さんさん。
朝はみんな散歩。
オリガと私は宝石の整理。
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■1918年7月16日 皇帝一家処刑


■1918年7月18日 処刑
エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃
(皇后アレクサンドラの姉)
セルゲイ・ミハイロヴィチ大公
(皇帝のイトコ)
ウラジーミル・パーレイ公爵
(皇帝の叔父パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の子)
イオアン・コンスタンチノヴィチ公
(皇帝の父のいとこコンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の子)
コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ公
(皇帝の父のいとこコンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の子)
イーゴリ・コンスタンチノヴィチ公
(皇帝の父のいとこコンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の子)

◆1917年


■1917年1月1日 ラスプーチンの死体が川で発見される

■1917年1月2日 ラスプーチンの遺体は司法解剖ののち亜鉛製の柩に入れられてツァールスコエ・セローのフョードル大聖堂へ運ばれた

■1917年1月3日 ラスプーチンの葬式が行われる

■1917年1月9日 7代首相アレクサンドル・トレポフから8代首相ニコライ・ゴリツィンに交替


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1917年1月1日 ニコライ・ミハイロヴィチ大公の日記

ユスポフ公爵はドミトリー・パヴロヴィチ大公の家に移った。
私は彼らの部屋を訪れた時、つい口を滑らせた。
「ごきげんよう!暗殺者諸君!」

ラスプーチンの暗殺者達が行った事は中途半端な措置である。
なぜならば、皇后もプロトポポフも始末しなければならないからだ。
そうしなければ、いっそう悪くなるだろう。
必然的な暗殺計画が私の頭にひらめいている。
みな私を扇動し、行動するよう懇願している。
しかし、どうやって?誰と?
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アンナ・ヴィルボアの主治医 ジューク

私はアンナと皇室庭園に建設中の彼女の教会へ馬車で行きました。
彼女はラスプーチンはあそこに葬られると言いました。
場所は皇后様が御自身でお選びになったのです。
墓の場所は聖堂の中央の左手の十字台のある所でした。
墓穴はすでに掘ってあり、その中に棺があるのを見ました。
我々が墓に到着してから10分ほど後に、皇帝と皇后と子供達を乗せた自動車がやってきました。
葬儀が終わると、森の中に配備されていた秘密警察の諜報員達が墓に土をかけました。
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皇后の友人&ラスプーチンの信者 リリ・デーン

ラスプーチン様が亡くなられた事を耳にすると、私はツァールスコエ・セローへ行きそこで1泊してラスプーチン様の埋葬にも列席しました。
太陽は紺碧の空に輝き、固く積もった雪はダイヤのようにキラキラしていました。
私は馬車を止めて、建設中の教会へ向かいました。
ソリの鈴の音が聞こえ、アンナがやってきました。
同時に自動車が止まり、喪服の皇帝一家が到着されました。
皇后はとても青い顔をしていらっしゃいましたが、落ち着いておられました。
棺は結局開けられませんでした。
皇帝と皇后はこの出来事に打ちのめされていました。
皇帝と皇后が棺の上に土を落とされたあと皇后が大公女達と私達に白い花を配られ、みんなで棺の上にまきました。
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1917年1月3日 皇帝の日記

朝9時に家族全員で出かけ、野中の礼拝堂に着いた。
12月30日の未明にユスポフの家で悪党どもに殺された忘れる事のできぬグリゴリーの遺体を納めた棺がもう墓穴に下ろされていた。
神父が追悼の祈祷を行い、私達は家に戻った。
午後は子供達と散策を楽しんだ。
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1917年1月5日 フランス大使 モーリス・パレオローグ 

ロマノフ一族の間で大きな興奮と動揺があるということを聞いた。
ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公の3人の息子、キリル・ボリス・アンドレイを含む幾人かの
大公たちが、皇帝をすげ替えることで専制を救うことを話していた。
近衛4個連隊の助けを得て、ツァールスコエ・セローに夜間行軍を行う。
皇帝には退位の必要が示され、皇后は修道院に閉じ込める。
それから皇太子アレクセイが、ニコライ・ニコラエヴィチ大公のもと帝位につくことが宣言されるであろう。
この計画の発起人たちは、ラスプーチンの暗殺に関わったドミトリー・パヴロヴィチが陰謀を指導し軍隊を説得すべきであると考えていた。
キリルとアンドレイはイトコのドミトリーの館を訪ねて、国家救済の仕事を果敢にやり抜くことを彼に懇願した。
ドミトリーは長い間葛藤してから、皇帝に手をかけることを拒否した。
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1917年1月10日 フランス大使 モーリス・パレオローグ 

キリル・ウラジーミロヴィチ大公の妻ヴィクトリヤ・フョードロヴナ大公妃の発言

皇后が「私は完全に間違っていました。ほんの最近まで私はロシアが私を憎んでいると考えていました。今や私が知ったのは、私を憎んでいるのはペトログラードの社会だけだということです。本当のロシア、貧しくて謙虚なロシアの農民は私とともにいるということに私は大きな慰めを見出しています。帝国のあらゆる地域から毎日私が受け取る電報や書簡をあなたに示せば、あなた自身も理解されるでしょう』と言った。
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1917年1月13日 フランス大使 モーリス・パレオローグ 

イギリス大使ブキャナンが皇帝に、ロシア社会のあらゆる階級で増している混乱と不安によりロシアや連合国に与えらる巨大な害を指摘した。
彼は皇后陛下の取り巻きのドイツのエージェントが行っている陰謀を非難することもひるまなかった。
その陰謀は皇后に対する臣民の愛情を損なっている。
彼はプロトポポフなどの悪影響も言及した。
最後に皇帝に今や開かれている二つの道のどちらかの選択をひるまないことを求めた。
二つの道は、一つは勝利に至り他方はとんでもない災厄に至るのである。
皇帝の態度は固く冷淡であった。
彼は沈黙を破り、二つの意義を提示した。
一つは「私が民衆の信頼に値するべきとあなたは言うが、むしろ民衆が私の信頼に値するべきではないのか」
二つは「あなたは大臣選任にあたり助言を受けていると考えてようだが、私は誰の助言もなしに自分で選任している」
それから皇帝は簡素な言葉で謁見を締めくくった。
「さようなら、大使」
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ニコライ・ミハイロヴィチ大公の日記

※ニコライ・ミハイロヴィチ大公は自分の領地グルシェフカに追放される

グルシェフカに向かう列車のなかで、シュリギンとテレシチェンコと会った。
テレシチェンコは1カ月も経てばすべてが崩壊すると確信している。
そしてシュリギンは私が流刑地から帰って来ると。
それにしてもこの二人の男は、二人とも口をそろえて皇帝暗殺の可能性について語っているのだ。
なんという時代だろう。
なんという呪いがロシアにふりかかっているのだろう。
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■1917年2月 アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公は皇后に家事に専念する事を懇願した。
皇后はサンドロの言葉をさえぎったが、彼はかまわずに続けた。
皇后は声を張り上げた。
彼も負けずに声を高めた。
この荒々しい会話が続く間、皇帝はパイプをくゆらしていた。
アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公は、いずれ彼女が彼の正しさを認める日が来ると予告して辞去した。


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1917年2月21日 フランス大使 モーリス・パレオローグから本国への報告 

ロシアにおいて革命的危機は迫っている。
日ごとロシア人は戦争に対してますます無関心となり、無秩序の精神がすべての階級や軍隊にさえ広まっている。
私の結論は、時期は私たちに有利に働いておらず、それゆえに私たちは同盟国の離脱を計算に入れてあらゆる考慮をしなければならないということである。
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アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公から皇帝への手紙 父帝アレクサンドル3世のイトコ

ロシアの内部にある力が、君をロシアを避ける事のできぬ破滅へと導いてゆく。
ロシアは皇帝なしには存在しえない。
だが忘れてはならないのは、皇帝一人ではロシアを統治する事はできないという事だ。
諸々の事件が君の助言者達が、君とロシアを確実な破滅へ導いている事を示している。
進言する声に君がまったく耳を貸そうとしない事に絶望を感じざるをえない。
今や政府は革命を準備する機関である。
我々は下からのではなく、上からの革命というかつてない光景に際会している。
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1917年2月23日 皇帝の日記 

2時にアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公が来て、私も交えて寝室でアレクサンドラと長いこと話し合った。
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ロジャンコ国会議長

国会再開を前にして皇帝と公式会見した。
皇帝の態度は無関心であるだけでなく、きつくさえあった。
軍や都市の食料事情の悪さ・警察への機関銃の譲渡・政治的事情に関わる報告を読む際に、皇帝は怒りさえぎった。
「もっと急いで報告できないのか」
国内における革命の可能性について言及した際も、皇帝はさえぎった。
「私の情報は完全に逆だ。また国会もこのように厳しい発言を行うなら、前回と同様解散されるだろう」
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国会議長 ミハイル・ロジャンコの証言

皇帝&ロジャンコ国会議長の会話

ロジャンコ◆顔ぶれの交代だけでなく、全統治システムの交代が緊急の対策です。
皇帝◆君たちは皆プロトポポフの退任を要求しているが、どうして君達全員は彼をそれほど嫌うのかね?
ロジャンコ◆要求します。これまではお願いでしたが、今は要求します。陛下、我々は重大な事件の前夜にいます。その出口はもはや予見する事ができません。私は断言します。3週間も経たぬ内に、ものすごい革命の火が燃えさかり、あなたも皇帝の地位に留まる事ができなくなるでしょう。
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1917年3月6日 フランス大使 モーリス・パレオローグ 

ペトログラードではパンと薪が不足していて、民衆は不足に苦しんでいる。
輸送の危機は、実際のところひどくなっている。
全ロシアを襲った極めつけの厳寒(マイナス43度)により、ボイラー管が損なわれたために、1,200台以上の機関車が動けなくなった。
予備の管はストのために不足している。
それ以外にも最近の降雪は例外的にひどく、舗道を除雪するための労力が村落において不足している。
結果として、5万7千両の列車が動けないのである。
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1917年3月7日 皇后から皇帝への手紙 

私はただひたすらにお祈りすることしかできませんし、親愛なる【私たちの友】もあの世であなたのために祈ってくれています。
神はお助け下さる。
そしてあなたが負っていらっしゃるあらゆる苦悩に、大きな報いをお与えくださるでしょう。
私の愛する人がしっかりして手綱さばきを見せてくださりさえすれば。
手綱を操り、ゆるめたりしめたりして飼い主の手をいつも感じさせるべきです。
優しさだけでは彼らは理解できないのです。
私の大切な人、強くなって下さい。
彼らはあなたを恐れる事を学ばねばなりません。
愛だけでは足りません。
子供は父を熱愛していても、父を怒らせる事を恐れなければなりません。
あの人たちにたまにはあなたのゲンコツの味を思いしらさせておやりなさいませ。
これこそロシア人に必要なものなのです。
彼ら自身がそれを望んでいるのです。
どれほど多くの人から「我々に必要なのは鞭だ!」という言葉を聞かされた事でしょう。
奇妙な事ですが、これがスラヴの本性なのです。

かわいそうなクセニア〔皇帝の妹〕
あんな息子たち、それにあの邪悪な一家にお嫁に行った娘〔イリナ・アレクサンドロヴナ〕それにあんな人非人なご亭主〔フェリックス・ユスポフ公爵〕本当にかわいそうです。

すぐお戻りください。
どこにいらっしゃるべきか、私にはわかっています。
今はまさにそちらよりもこちらにおられるべきなのです。
ですから当面の仕事を片づけて10日以内にぜひお帰りくださいませ。
これがギリギリの期限です。
あなたの防壁、この女房が陰ながらあなたをお守りし続けています。
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■1917年3月8日 二月革命(旧暦で2月、新暦で3月)
ペトログラードでストライキが始まった。
8万人の労働者が立ち上がり、パン屋の前に飢えた人々の長い列ができた。


■同時期、皇帝一家の子供達が次々と麻疹にかかる

麻疹のため髪を丸坊主にした四姉妹
1008



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1917年3月8日 皇帝から皇后への手紙 

君の貴重な手紙を就寝前にむさぼるように読みました。
二カ月一緒に暮らした後の孤独の中で、とてもうれしかった。

オリガとベビー〔アレクセイ〕が麻疹にかかったという君の電報を受け取りました。
愛する小鳥さん、君にとってはとてもご苦労な厄介なことです。
子供たちみんなが、一時にそれを済ませてくれますように!
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1917年3月9日 皇后から皇帝への手紙 

オリガとアレクセイが麻疹にかかりました。
他の娘達も感染を避けられないなら早くかかった方がいいと思います。
その方がみんな一緒で楽しいし、そんなに長いことではないでしょうから。

昨日ヴァシーリエフスキー島とネーフスキー大通りで騒動がありました。
貧しい人々がパン屋を襲ったからです。
コサック兵が鎮圧に駆り出されました。
国会であんなひどい演説をしたケレンスキーは絞首刑になればいいと思います。
なすべきことはただ一つ、戒厳令と見せしめです。
みんながあなたの決断を切望し懇願しています。
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■1917年3月10日 ラスプーチンの遺骸が掘り返され焼却される。
棺の中から小さな木製のイコンが発見された。
イコンの裏側には皇后と4人の娘達とアンナの署名が紫色のインクで記されていた。


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皇后から皇帝への手紙 1917年3月10日

昨日騒動がありました。
貧民がパン屋を襲ったのです。
彼らに対してコサックが差し向けられました。
町の騒動とストライキは腹立たしい限りです。

私宛のプロトポポフの手紙を同封いたします。
大した報告じゃございません。
あれは与太者の運動です。
若い男女が走り回ってパンがないとわめきたてる。
これは単にパニック状態を作り出すためです。
そして労働者は互いに働くのを邪魔しあっているのです。
もっと寒かったら彼らは屋内にとどまっていたことでしょうに。

一部のパン製造所もストをやりました。
なぜ切符制にしないのか、なぜすべての工場を軍直轄にしないのか。
そうすれば秩序紊乱もなくなり、スト首謀者も皆をそそのかすことができなくなります。
この食料問題が正気を失わせているのです。
こんなことはみな、国会がしっかりやりさえすれば何事もなく収まるでしょう。
私は君主制反対の言論はただちに厳罰に処すべきだと考えます。
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しかし1917年3月11日には、皇帝は兵士達が暴徒に発砲する事を拒否し反乱者側に移ったという報告を受けた。
ロジャンコは皇帝に絶望的な電報を送った。
しかし電報は深夜に届いたため、皇帝がこの電報を見たのは翌朝になってからだった。


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1917年3月11日 ロジャンコ国会議長の電報 

首都は無政府状態。
政府機能はマヒし、交通は乱れ、食料と燃料は完全に消滅。
軍は敵味方に割れ、通り通りでめちゃくちゃな銃撃戦が行われている。
その根底にはパン不足と穀粉搬入の不調がパニックを引き起こしている事情があるが、最大の原因は国難打開の能力を欠く当局への不信にある。
この事態を放置すれば、無辜市民の流血と引き替えに一時的抑制は可能としても、これを繰り返しているうちに収拾不能に陥ることは必定。

陛下よ、ロシアを救い給わんことを。
かかる状況のもとでこの戦争に勝利をおさめることはできない。
不穏な動きはすでに軍隊に波及し、無政府状態と権力の乱脈に断固終止符を打たぬかぎり、さらに進展する恐れがあるからである。
陛下、即刻国全体の信頼に値する人物を呼び寄せ、全住民が信頼できる政府の組閣を御下命あらんことを。
これ以外の道はなく、一刻の猶予も許されない。
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1917年3月11日 皇帝の日記 

10時にミサに行った。
アレクサンドラに手紙を書いてから、馬車で小礼拝堂へ出かけた。
夜、ドミノをやった。
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1917年3月11日 皇后から皇帝への手紙 

市内の混乱についていろいろと噂されています。
20万人以上だと思います。
パンは配給制にしなければ。
お砂糖が一時配給制になりましたが、みな静かに十分受け取っています。
みんながバカなのです。
大バカの民衆は、身なりの良い人々、負傷した兵士などなどに危害を加え、女子学生らが他人をそそのかしています。
なんという腐り切った人達でしょう!
御者たちの話では学生どもがやってきて、
「今朝、外にいたら射殺されてしまうぞ」と言ったそうです。
ほんとにいやらしい連中。

今日は本当に暖かい日です。
子供たちが自動車でさえドライブができないのは腹立たしい思いです。
太陽はこんなに明るく輝いているし、私は【私たちの友】の懐かしいお墓に詣でて私はえも言われぬ平和と安らぎを感じたのです。
【私たちの友】は私たちを救うために死んだのです。
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1917年3月12日、前日の電報に返事がなかったため、ロジャンコは再び皇帝に電報を送った。


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1917年3月12日 ロジャンコ国会議長の電報 

状況は悪化。
ただちに措置を取る必要あり。
明日ではもう遅い。
祖国と王朝の運命が決せられる最後の時が来た。
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1917年3月12日 皇帝の日記 

ペトログラードでは数日前から騒擾が始まった。
遺憾なことに、軍隊もその中に参加し始めた。
こんな遠くにいて 断片的なよくない情報を受けるのは極めて嫌な気分だ。
午後散歩した。
ディナー後できるだけ早くツァールスコエ・セローへ出発する事にして、深夜1時に列車に移った。
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1917年3月12日 皇后の友人&ラスプーチンの信者 リリ・デーン 

※すべて皇后の発言

「私には理解できない。革命だなんて私は信じません。騒ぎはペトログラードだけなのよ」
「皇帝に電報を打ち、すぐ帰ってくれるように頼みました。彼は14日の朝着きます」
「娘達にはどうしてもという時まで話したくないのよ」
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■1917年3月13日 ツァールスコエ・セローの守備隊が反乱したためロジャンコ国会議長が電話で皇后に退去を勧告したが、皇后は子供たちの病気を理由に拒否した。
宮殿を守るのは近衛部隊のわずかな兵力にすぎず、近衛部隊からも逃亡兵が続出した。

■同日 皇帝もモギリョフからツァールスコエ・セローに戻るため列車で出発するが途中のプスコフから進めなかった。
すでに全駅は反乱軍に占拠されていた。
監獄は解放され、警察署は破壊され、警官は捕えられている。
街には民衆があふれ、至るところ旗や赤い布で覆われていた。


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1917年3月13日 皇帝から皇后への電報 

今朝5時出発。
天候絶佳、気分良好。
平静ならんことを望む。
最大の愛を。
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1917年3月14日 皇帝の日記

リュパーニとトースノが反乱軍に占拠されていると判明したため引き返す。
ガッチナとルーガも占拠されたと判明。
なんたる恥辱、不面目!

ツァールスコエ・セローまで行き着くことができなかったが、この有為転変を一人で耐え忍ばなければならなかったアリックスはどんなにつらかったことか。
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1917年3月14日 大公たちの宣言 

※大公たちはこの文案を皇帝に送り、署名を仰ぐことに決定した。

朕ニコライ2世は忠良なる汝ら全臣民に告げる。
ロシアの命運が戦場で決せられつつあるこの時に、国内の騒擾が首都に及び、戦争を勝利のうちに終結させるために不可欠な防衛努力を阻害したことは朕の深く遺憾とすることろである。

朕は十字を切りつつロシア国家に立憲制度を付与し、勅令によって中断された国会の再会を命じ、国会議長に国の信任にもとづく臨時内閣の即時組閣を委託する。

ツァールスコエ・セローにて
署名
ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公
キリル・ウラジーミロヴィチ大公
パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公
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3月13日に立てた大公たちの計画では、皇帝がツァールスコエ・セローに到着した時にこの宣言を提示することになっていた。
皇帝の列車がツァールスコエ・セローに向けて出発してから、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公が皇后にこの宣言を提示したが、皇后は「戦争が終ったら憲法を作るとかいうバカげた宣言」と言って拒否した。


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1917年3月14日 参謀総長 ミハイル・アレクセーエフから皇帝への電報 

皇帝陛下へ
無政府状態が全国に波及し、軍の崩壊がさらに進行する危険性が刻々増大しつつあって、現状では戦争続行は不可能なるゆえ、ただちに詔書を発布することが緊要である。
今ならまだ世論を鎮静させることができる。
それを可能にする唯一の方途は、責任内閣を認め、その組閣を国会議長に委任することである。
しかし時間をいささかなりとも空費するなら、秩序を維持し回復する最後のチャンスを減らし、極左分子の政権奪取を助けることになる。
以上にかんがみ、陛下が大本営から以下のごとき詔書を御発布あらんことを切に懇請する。

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朕が忠良なる全臣民に告ぐ。
恐るべき凶暴な敵は、我らが祖国との戦いに最後の力を傾注している。
決定的時機がちかづいている。
朕は国民代表に対して責任を負う内閣を作る必要を認め、今ロシアの信任を受けている人物の中からロジャンコ国会議長を選び、組閣の任務を与えた。
ロシアが依然として不敗であり、敵のいかなる奸計にも屈しないことを改めて表明するよう訴える。
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1917年3月15日 参謀総長ミハイル・アレクセーエフから皇帝への電報 

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ニコライ・ニコラエヴィチ大公 皇帝の父のイトコ

私は忠実な臣下としての自らの誓約の義務と精神にのっとり、ロシアと皇太子に対する皇帝陛下の神聖な御愛情を知るがゆえに、恐れながらロシアと帝位継承者を救い給うよう陛下にお願いする必要ありと考える。
御自ら十字を切った上で、皇太子に譲位あらんことを。
他に解決策はない。
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西部方面軍司令官 アレクセイ・アレクセーヴィチ・ブルシーロフ 

祖国とツァーリへの献身と愛情にもとづく私の恭順な願いを貴官から陛下にお伝え願いたい。
現時点において情勢を打開し、外敵との戦争継続の可能性を与えうる唯一の道は、ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公〔皇帝の弟〕を摂政として皇太子に帝位を譲ることであり、これ以外の道はない。
燃え上がって規模を拡大しつつある民衆騒動の火を早急に消すため、急ぐ必要がある。
さもなくば数知れぬ破局的結果がもたらされるだろう。
この措置によって、正当な帝位継承者という形で王朝そのものも救われるだろう。
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南西方面軍司令官 アレクセイ・エルモラエヴィチ・エーヴェルト 

陛下、現在の構成での軍隊では国内騒擾鎮圧は期待できません。
戦争継続が不可能ならば祖国の凶悪きわまる敵によるロシアの奴隷化は必定であり、そのロシアを救うという旗印を掲げなければ軍隊をまとめることはできません。
両都〔ペトログラードとモスクワ〕の革命を押しとどめる手段はまったくありません。
陛下に限りなく恭順な臣下として恐懼しつつ陛下にお願い申し上げます。
祖国と王朝を救うため、国会議長が示した声明に沿った決断をなさいますよう。
これは革命を押しとどめ、無政府状態の惨禍からロシアを救うことのできる唯一の決断であります。
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以上の電文を陛下に恐懼上奏し、神が陛下に告げ給うままの決断を一刻も早くお下しになるよう懇願申し上げます。
ペトログラード・モスクワ・クロンシタートその他の諸都市に蔓延した病気はさしあたり軍隊には伝染しておりませんが、今後とも最高の軍紀を維持できるとは保証しかねます。
皇帝陛下、祖国を熱愛し、その保全と独立のため、勝利達成のため、聖断を下し給わんことを。
聖旨をお待ちいたしております。
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■1917年3月15日 皇帝ニコライ2世退位
3月15日夜10時、ペトログラードから到着した国会代表側とプスコフの皇帝側とが帝室列車で退位について協議する。

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1917年3月15日 退位に関する会議録
 
アレクサンドル・イワノヴィチ・グチコフ議員
ヴァシーリー・ヴィターリエヴィチ・シュリギーン議員
皇帝
北部方面軍司令官ニコライ・ウラジーミロヴィチ・ルースキー
宮内大臣ウラジーミル・ボリソヴィチ・フリーデリックス伯爵
侍従部遠征軍官房長キリル・アナトリエヴィチ・ナルィーシキン

グチコフ◆私がシュリギーン議員とここに参上したのは、この数日間にペトログラードで生じた情勢を打開しうるような措置について協議するためである。情勢は極めて険悪である。まず労働者、続いて軍隊が運動に合流し、騒乱は近郊に飛び火した。これはあらかじめ計画を練ったクーデターの結果ではなく、運動が草の根から噴出してたちまち無政府的な性格を帯びたものである。私は軍隊の幹部に「信頼できる部隊なり頼りにできる部下なりは掌握しているのか」と尋ねたところ、「そういう者はいないし、到着した部隊はみんなたちまち蜂起側に寝返っている」との答えであった。何が危険かと言えば、ペトログラードが無政府主義の手中に落ち、我々穏健派を排除してしまうことである。彼らのスローガンは共和国の樹立である。この運動は下層民や兵士までをとらえつつある。第二の危険は運動が前線に波及することである。ここでのスローガンは、上官を追放して自分たちに都合の良い上官を選出せよというのである。こういう状況を作り出したのは、権力ほかならぬ最高権力の誤りであるという意識が民衆の間に深く根を下ろしているので、民衆の意識に働きかけるような行為が必要である。ロシアを救い、君主制を救い、王朝を救うことは可能である。陛下が皇太子に譲位し、皇弟ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公を摂政とし新政府の組閣をお命じになるなら、ロシアはおそらく救われるであろう。おそらくと申し上げるのは事態があまりにも急速に展開し、過激分子は今やロジャンコや私やその他穏健派議員を裏切者扱いしているからである。以上の次第で、もちろん陛下におかせらては決断をお下しになる前に十分考えられるべきであろう。しかし御決断は明日を待たずになさっていただきたい。明日になれば、我々はもはや御助言申し上げることすらできなくなってしまうかもしれない。

皇帝◆あなた方の到着前に国会議長と話し合って、ロシアの幸福と安寧と救済のため退位して息子に帝位を譲るつもりでいた。しかし息子は病弱なので、私は自分が退位すると同時に彼の即位をも辞退しなければならない。

グチコフ◆皇太子の御幼少のお姿が印象をやわらげるのではないかと我々は考慮したのだが。

ルースキー◆皇太子にご譲位になれば皇太子と引き離されるのではないかと、陛下は御心配になっておられる。

皇帝◆退位に同意するにあたり、一つ確かめておきたい。それが全ロシアに与える影響をあなた方は十分考慮したのだろうか。ある種の危険となって跳ね返ってくるのではあるまいか。

グチコフ◆いや、陛下、危険はそこにあるのではなく、万一共和制が宣言されたら内乱が起こる。我々はそれを危惧している。

シュリギーン◆3月11日には群衆が国会に乱入し、武装兵士と共に右側全体を選挙した。左側は公衆に占拠されている。我々が確保したのは二部屋だけで、逮捕された者は皆ここに引っ張ってこられる。ここへ引っ張ってこられるのはまだ幸せだ。群衆によるリンチを免れるからだ。まさにこういう条件の中で我々は活動している。陛下の新たな御提案については、せめて15分なりと我々に考えるひまをお与えいただきたい。この提案のメリットは親子の別離がなくなる点だが、もし皇弟が即位と同時に大権を持つ君主として憲法を守ると誓約されるなら、沈静化を促進する要素となると思われる。

グチコフ◆騒動に参加したすべての労働者と兵士は、旧権力の復活は自分たちに対する弾圧だと信じている。したがってすべてを一気に変えてしまうような強烈な一撃を加えることが必要だ。

皇帝◆私の退位の結果として、この上さらに余計な流血が起こらないという保証を得ておきたい。

シュリギーン◆新体制に反対して闘う分子の側からそういう試みがあるかもしれないが、それを危惧する必要はない。例えばキエフ市はいつも君主への忠誠心の厚い町だったのに、今では完全に変っている。

皇帝◆コサック諸州に騒動が起こるとは思わないか。

グチコフ◆いや、陛下、コサックはすべて新体制に味方している。陛下はいま父親としての人間的感情でものを仰せになっておられる。そこに政治の入り込む余地はない。だから我々は陛下の御提案になにも異議を申し立てることはできない。

シュリギーン◆ただ重要なのは、陛下の詔書の中に帝位継承者は憲法に宣誓する義務がある旨を明記することだ。

※皇帝は準備された退位詔書を、皇太子ではなく皇弟ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に譲位すると自らの手で訂正した。
清書するよう下命の後、詔書に署名してグチコフに手渡した。

シュリギーン◆陛下は今後どうなさるおつもりか。
皇帝◆数日間大本営に赴くつもりだが、皇太后に別れを告げるためキエフに行くかもしれない。その後は子供たちの病気が治るまで、ツァールスコエ・セロにとどまるつもりである。
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1917年3月15日 皇帝の日記 

大本営から宣言案を送ってきた。
私は同意した。
夜にペテルブルクから前国会議長グチコフと国会議員シューリギンが到着した。
私は二人と話をして、推敲し署名した宣言文を渡した。
周囲は裏切りと小心、そして欺瞞だけだ。
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1917年3月15日 皇后から皇帝への手紙 

ロジャンコはあなたの列車が途中で止められた理由を知らないふりしていますが、あなたが何かの文書か憲法かあるいはそのたぐいの恐ろしい物に署名する前に、私に会わせないようにするためであることはハッキリしています。
そしてあなたはたった一人で軍の後ろ盾もなく、ネズミ取りにかかったネズミも同様。
あなたに何ができるでしょう。
自分たちの君主を拘束するなんて、歴史に例のない最大の辱めであり卑劣な行為です。
あなたが騙されてはいないと聞いたら、軍隊は憤慨してすべてに反対して立ち上がるでしょう。

パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公〔皇帝のイトコ〕が今度はしっかり働こうとして、我々全部を助けるつもりでいます。
とても偉そうにしているけれどバカな人。
「戦争が終ったら憲法を作る」とやらのバカげた宣言〔大公たちの宣言〕を作ったのですから。
ゲオルギー・ミハイロヴィチ大公〔皇帝の父のイトコ〕はどんなニュースも知らせようとはせず、こちらへ来ようともしません。
ミハイル〔皇帝の弟〕クセニア〔皇帝の妹〕キリル・ウラジーミロヴィチ大公〔皇帝のイトコ〕は町から出ることができます。

国会と革命派は二匹の蛇です。
互いに相手を噛みちぎってしまえば良いのに。
そうすれば現状を救うことになります。
でも私は固く信じています。
私は神が何かしてくださると感じています。
あなたは譲歩を強いられても、絶対にそれを実行してはなりません。
【私たちの友】の十字架を身に着けて下さい。

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1917年3月15日 ラスプーチンの信者&皇后の友人 リリ・デーン

※皇帝が退位したという新聞を見せられた皇后の発言

「いいえ、嘘です。私は信じません。新聞の中傷です」
「リリ、船舶隊が見捨てて行ってしまったの!」
「彼らの指揮官のキリル・ウラジーミロヴィチ大公が呼び寄せたのよ。私の水兵、私だけの水兵、信じられない」
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1917年3月15日 フョードロフスキー大聖堂主任司祭アファナーシィ・イヴァノヴィチ・ペリャーエフ長司祭

なんと恐ろしく思いがけない悲運がツァーリ御一家を襲ったことか。
報道によると陛下はツァールスコエ・セローへ戻るようにとの皇后からのお呼び出しを受けて急いで帰ろうとなさっているところを途中で阻止され逮捕され、しかも皇位を退かれたとさえ言われている。
重病の5人のお子様を抱えた皇后の御心境たるや、恐懼の極みである。
御自身の御身体のあらゆる不調をじっとお堪えになって、生神女のお助けを固く信じて献身的に病人の看護をに没頭されている。
私はこう申し上げた。
「皇后陛下、御気丈に。夢は恐ろしくとも神は憐れみ深くおわします。信仰と希望を捨てず、祈祷をおやめになりませんよう」
宮殿はすでに軍隊に取り囲まれており、内部にいる人間はすべて逮捕されたとのことだった。

ペトログラードでは何やら恐ろしいことが起っている。
家々が破壊・放火され、軍隊はツァーリを裏切り労働者・一般民衆に合流して警察署を焼き打ちし、自分たちの上官や高官を更迭・逮捕し、犯罪人を牢獄から釈放し、共和制を宣言して万人に完全な自由を与えると呼号している。
軍隊と警察の間でも激しい戦闘が始まった。
ネーフスキー大通りに銃声が響き、罪もない犠牲者が続出している。
ツァールスコエ・セローでも情勢は不穏で、軍隊が配置されている市内のソフィースキー地区では狂ったような叫びが聞こえ、小銃が連射され、兵士たちは酒屋や商店を打ち壊し、警察の建物に火を放ち逮捕者を牢獄から解放している。
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1917年3月16日 ラスプーチンの信者&皇后の友人 リリ・デーン 

ドアが開き皇后が姿を見せました。
顔は苦しみに歪み、目は涙でいっぱいでした。
よろめくような足取りで、私は駆けよって皇后を支え、窓際の机までお連れしました。
皇后は机にもたれかかって私の手を握り、とぎれとぎれに「アブディクー、アブディクー」(フランス語で退位の意味)と言われました。
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1917年3月16日 ブクスヘヴェデン男爵夫人 

「結局はよくなるでしょう」と皇后は言われました。
「これも神の御意志なのです。神はロシアを救うためにこうなさったのです」
私達がドアを閉める時、皇后が椅子に倒れこまれ手で顔をおおって痛ましそうにむせび泣かれるのが見えました。
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1917年3月16日 皇后から皇帝への手紙 

キリル・ウラジーミロヴィチ大公は町でよからぬ動きをしています。
口先では君主と国家のために働いているなどと言っていますけれど。
神はすべてお見通しです。
神はあなたをお見捨てになるようなことはなさいません。

つい今しがたパーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公が来て、すっかり話してくれました。
私はあなたの行為がすっかりわかりました。
あなたが帝位に復帰され、あなたの国民と軍隊を取り戻されるの栄光を見る事になるでしょう。
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1917年3月16日 皇帝の日記 

弟〔ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公〕が退位したようだ。
彼の宣言は6カ月後に憲法制定会議の選挙を行うとやらのおためごかしの美辞麗句で終わっている。
誰に吹き込まれてこんな醜悪なものに署名したのか。
ペトログラードの騒乱は収まった。
この状態が続けばいいが。
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1917年3月17日 皇后から皇帝への手紙

私は少しも気落ちしてはおりません。
神はもちろんあなたが受けた苦しみの100倍の報いをお与え下さるでしょう。
軍があなたのために決起するだろうという気がします。

ドイツの革命は至るところでフリーメーソンの動きが見えます。

今朝ようやくすべて〔皇位〕がミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に引き渡され、いまはベビー〔アレクサンドル〕は安全であることを知りました。
本当にホッとしました。
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1917年3月18日 フランス大使 モーリス・パレオローグ 

皇帝が皇太子でなく皇弟に譲位したということを聞いて、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・バシリィと私はびっくりした。
お互いに見つめ合って、同じ考えが浮かんだ。
皇太子への直接的譲位が革命を止める、または少なくとも革命を立憲改革の範囲内にとどめるための唯一の手段であったということだ。
第一に若い皇太子には法律が味方になろう。
彼は自分に対する臣民や軍隊の同情的な感情により利益を得るであろう。
最後にそしてこれが重要な点なのであるが、帝位は一瞬たりとも空位ではなかったであろう。
もし皇太子が帝位につくと宣言されれば、誰も彼を退位させる権限を持たなかったであろう。
ミハイル大公に対して起きたことは、この少年の場合においてはありえなかったであろう。
摂政の任命についての議論は起きたであろうが、しかしそれだけである。
私たちは今やどこにいるのであろうか。
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退位の署名を終えた皇帝は、軍隊に最後の挨拶をするため大本営に引き返した。


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1917年3月17日 皇帝の日記 

キエフから到着するママ〔マリヤ皇太后〕を迎えに駅に行った。
ママを家に連れて行き、身内達も加えて食事をともにした。
長いこと語り合った。
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皇太后は3日間モギリョフに滞在し、御召列車の中で過ごした。
皇帝一族の出発について話し合いを進めていた。
イギリスに亡命するつもりであった。
ニコライはアレクサンドラの元に帰るまでにすべてを調整しようとしていた。
しかしそれは許されなかった。
臨時政府はロマノフ一族の逮捕を決定したのである。


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1917年3月21日 皇帝の日記 

12時客室内のママの所に行って、ママや側近達と会食、4時半までそこにいて、ママ、アレクサンドル・ミハイロヴィチ、セルゲイ・ミハイロヴィチ、ボリス・ウラジーミロヴィチらと別れの挨拶。
人々が山のように集まって感動的な見送り。
みじめで苦痛でわびしい気持ち。

*これがニコライと母親の最後の別れとなる
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■1917年3月22日 皇帝一家のツアールスコエ・セロー監禁決定 
ニコライはツアールスコエ・セローに帰宅、
ニコライの帰宅までにアレクサンドラはお気に入りの藤色の間の暖炉で書類を焼き続けた。


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1917年3月22日 皇后の友人&ラスプーチンの信者 

3月22日宮殿の扉に錠が下ろされました。
私は藤色の皇后居室まで降りて行きました。
皇后は私を待っておられましたが、その立ち姿はとても少女少女して見えました。
長い豊かな髪を編んで背中にたらし、パジャマの上に絹の部屋着を着ておられました。
とても青白い透き通るようなお顔で、なんとも言えず痛ましい御様子でした。
私が長椅子の上にベッドを作っているのを御覧になって、笑いながら近寄ってこられました。
「リリ、あなた方ロシア婦人はベッドの作り方をよく御存知ないのよ。私は少女の頃、御祖母様のヴィクトリア女王がベッドの作り方を教えて下さいましたのよ」
私には眠ることができませんでした。
私は皇后の藤色の長椅子に横になって、ひょっとしてこれは夢ではないかしら、突然ペトログラードの私のベッドで目が覚めるのではないかしら?
でも皇后の寝室から聞こえる咳は、悲しい事に夢でない事を知らせている。

「私は散歩に行こうと思っている」と皇帝はおっしゃいました。
皇后とアンナと私の3人が窓から見ていました。
兵士達が拳と銃で皇帝を押し戻して、まるで浮浪者を扱うように皇帝をからかいました。
「あんたはあっちへ行ったらいかんのだ」
「俺たちはあんたをそっちの方には行かせないよ」
「命令されたら言う事を聞くんだ」
皇帝は向きを変えて宮殿の方に戻って来られました。
私はこの時まで革命の恐ろしい権力を本当に理解していなかったと思います。
皇帝が右往左往するのを見ると、今まで広大な領地を持っていた皇帝が今は自分の庭園の数メートルしか歩けないという事を、私達は否応なく思い知らされたのでした。
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■1917年4月アンナとリリが逮捕される


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1917年4月3日 皇帝の日記 

司法大臣ケレンスキーが突然来訪、かわいそうにアンナを逮捕し、リリとともに町へ連れ去った。

*これがニコライ一家とアンナの最後の別れとなる
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1917年4月3日 皇后の友人&ラスプーチンの信者 リリ・デーン 

皇后は恐ろしいほどの意志力で微笑まれました。
「リリ、苦しみによって私達は天国で清められるのよ。この別れは小さい事なのよ。私達は別の世界でまた会いましょう」
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1917年4月5日 皇帝の日記 

所持品や本を整理して、イギリスに行く時に持っていきたいと思う物を選り分ける仕事を開始。
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1917年4月12日 ロシア人外交官僚 アレクサンドル・コンスタンチーノヴィチ・ベンケンドルフ伯爵

司法大臣ケレンスキーは丁重であり抑制的であった。
彼は皇后に対して、政治において彼女が演じた役割、彼女の大臣選択や国事に対する介入について尋ねた。
皇后は次のように答えた。
皇帝と皇后は仲睦まじい家族であり、お互いに秘密はなく、すべてを共有していた。
それゆえに、もし最近の苦しい経験の際に、政治が彼らの間で大きな場所を占めたとしても驚くべきことではない。
ケレンスキー大臣の尋問はこれ以降行われなかった。
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1917年4月13日 フョードロフスキー大聖堂主任司祭アファナーシィ・イヴァノヴィチ・ペリャーエフ長司祭

赦しを願う祈祷を唱え十字架と福音書に口づけして私はつたない慰めの言葉を述べたが、悪だくみによって自分の国民から遠ざけられながらも今に至るまで御自身の行動の正しさを確信し、愛する祖国の幸せを望んでおられる御方の御心に果たしてどれほどの喜びをお与え申し上げることができたであるろうか。
「陛下、完全な憲法を適時に御欽定遊ばされ国民の宿願をかなえておやりになったら、ロシアのためにもまことに良かったのではないかと愚考いたします。そうなさればすべての人が陛下を善と愛と平和の天使としてお讃え申し上げたでありましょうに」と申し上げたところ、皇帝陛下はびっくりした面持ちでこうお答えになった。
「それは本当ですか!皆が私を裏切った。ペトログラードは大混乱で反乱が起こっていると言われて、私はペトログラードには行かずにツァールスコエ・セローに行くことにしたが、鉄道はもう遮断されていた。前線に戻ることに決めたが、そちらの鉄道も遮断されているという。そんなわけで一人だけで身近な助言者もなく、犯罪者さながらに自由を奪われて、自分も退位し皇太子の即位も断るという詔書に署名した。祖国の幸せのために必要なことなら何でもしようと決意したのです。家族が気の毒です」
そしてこの心弱き受難者の両眼から熱い涙がこぼれた。
皇后はこう仰せられた。
「私は誤解されていたのです。ただよかれと思ってやっていたことなのに」
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1917年4月16日 皇帝の日記

昼食後タチアナとアナスタシアとアレクセイを連れて庭園に出て、夏の船着場の氷を長い時間かけて割る。
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■1917年5月


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皇帝の日記 

1917年5月1日
本日は外国ではメーデー。
そこで我が国の阿呆どもは、楽隊つきで赤旗を押し立てた街頭行進でこの日を祝う事に決定した。

1917年5月6日
2時一家そろって庭園に出る。
池の周りで氷を全部割って取り除く。

1917年5月19日
満49歳になった。
特に強く思うのは愛するママのことだ。
手紙をやりとりすることすらできないのはつらい。
新聞記事以外には、ママの消息は何もわからない。
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■1917年6月


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1917年6月11日 皇后から男友達への手紙

新聞を読むのが本当につらい。
私たちはどこにいるの?どこまで行きついてしまったの?
規律はどこへ行ってしまったの?
夫について愚か者だとかなんとか、けがらわしいことばかり書き散らしています。
ますますひどくなるので、私は新聞を放り出します。
夫を誹謗し神の御意思で即位した皇帝に泥をかぶせるなんて、ひどすぎます。
世の人は不公平なもの、褒め言葉なんて一つもありません。
良いことは全部忘れ去られています。
三か月の間のこれほどの混乱を見ようとは思ってもみませんでした。
でも主はまだ祖国を救ってくださいます。
それを固く信じています。
あなたは信仰をなくしてはいけません。
絶対にいけませんよ。
さもないと生きる力もなくなってしまいます。
私は人を信じていませんが、そのかわり自分の全存在をかけて神を信じています。

一刻も早くロシアの破滅を見ようと努力しているだけのよからぬ分子より、自分が強くなるのを恐れてはいけません。
連中は愛国者ではありません。
攻勢が期待されているのに、またもやグズグズしています。
人々はますます悪くなってきました。
首都はソドムとゴモラ、そのため罰が下され多くの人がすでに苦しみました。
今では農民が彼らの物を全部取り上げるのではないかと心配しています。
人々は悪い、そこで神が罰を与えておいでになる。
見せしめのための罰です。
いま地上にあるのは悪の王国。
大衆の心理というものは恐ろしいものです。
なにしろ我が国民はひどく文化程度が低いものですから、羊の群れのように波に乗せられるのです。
才能を持つ国民なのですが、愚鈍で何も理解しないのです。
悪い連中が至るところで破滅を目指して活動しているのですから、善良な人々は国を救うためにがんばってもらわなければなりません。
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皇帝の日記

1917年6月22日
我々が囚われ人にように暮らし始めてからちょうど3カ月。
愛するママから便りがないのはつらいが、その他のことは私としてはどうでもいい。
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■1917年7月16日~7月20日 七月蜂起


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1917年7月2日 オリガ皇女からロシア語教師ピョートル・ペトローフへの手紙

私たちの日常は午後2時から5時まで散歩し、それぞれ何か庭仕事をやっています。
ひどく蒸し暑い日でなければママも外へ出て、水辺の木陰で寝椅子の上に横になっています。
パパは庭の奥の方に行って木を切り倒したり、ノコギリでひいたりします。
アレクセイは裸足で走り回り、時には水浴びしています。
家庭教師トリーナは花壇の雑草を取り、水をやっています。
お勉強はどんどん進んでいます。
マリアと私は一緒に英語を勉強しています。
週に二回彼女と歴史をやります。
アナスタシアとは週に二回中世史を読んでいます。
私は自分の自由な時間を読書・芸術史・フランス史・世界史・ロシア文学に割り当てています。
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1917年7月4日 オリガ皇女から叔母オリガ・アレクサンドロヴナ大公女への手紙 

あなたがキエフで私たちのところへおいでになった時、心の触れ合うお話をしたかったのですが、とうとうその機会がありませんでした。
愛するオリガ叔母様、今あなたは二重におつらい立場なのですね。
神があなたをお守りくださいますように。

かわいそうなママは恐ろしく退屈しています。
新しい生活とここの環境に、どうしてもなじめないでいるのです。
クリミアに一緒に行けるのですから、一般的に言えば私たしは感謝してもいいぐらいなのに。

*皇帝一家は、夏にクリミアに移送されるものと思っていた。
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皇帝の日記

1917年7月3日
午後テニスコートの向こうの枯れ木4本を切り倒し、それから菜園で4時半まで作業。

1917年7月8日
エゾ松1本を伐採し挽く。
使用人たちが鎌で草を刈るのを見る。

1917年7月9日
温室の向こうの巨大なエゾ松を挽く。

1917年7月10日
午後エゾ松2本を伐採し挽く。

1917年7月11日
エゾ松3本を挽く。

1917年7月18日 
ペトログラードで最近、銃撃を伴う騒動が何回か起きた。
昨日クロンシュタットから多数の兵士と水兵が到着、臨時政府に反対するためだという。
支離滅裂も甚だしい!
この運動を掌握することができ、反目と流血を止めることができる人々はどこにいるのだろうか?
諸悪の根源は他ならぬペトログラードにあり、ロシア全体にあるのではない。

1917年7月19日
午後森の中で大いに働き、エゾ松4本を伐採し挽く。

1917年7月21日 
臨時政府の編成に変化があった。
リヴォーフ公が退陣、ケレンスキーが陸相・海相のまま首相となり、新たに通産大臣も兼任することになる。
この人物は現時点でこのポストで有益な役割を演じており、彼が多くの権力を握れば握るほど事態はますます好転するだろう。
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■1917年8月14日 皇帝一家はツァールスコエ・セローからトボリスクへ移送される。


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皇帝の日記

1917年7月24日 
ケレンスキー来訪。
彼はツァールスコエ・セローが平穏でない首都に近すぎるため、私たち一家はおそらく南方へ行くことになるだろうと語った。

1917年7月26日
伐採線の両側で作業。
3本伐採、うち2本を挽く。
少しずつ身の回り品や書物の整理を始めている。

1917年8月1日
4本伐採。

1917年8月3日
どこへいつ出発するのか、この辺で確かめておきたい。

1917年8月7日
エゾ松4本を伐採、挽く。

1917年8月10日 
我々が送られる先はクリミアではなく、旅程3日ないし4日の東方の県であると知らされた!
具体的にどこであるかは誰も教えてくれないし、警備司令でさえ知らないという。
我々は皆クリミアに長期滞在する事をあれほど期待していたのに!

1917年8月11日
午後9本伐採、エゾ松1本を挽く。
所持品をすべて整理して梱包したので、どの部屋もガランとしている。

1917年8月12日
エゾ松1本を伐採、2本を挽く。

1917年8月13日
我々のツァールスコエ・セロー滞在の最後の日。
3本伐採。

ディナー後、延び延びになっていた出発時刻の指定を待つ。
警備隊が我々の荷物をホールに運び始めた。
我々はトラックの到着を待って行きつ戻りつした。
アレクセイは寝かされたと思うと、また起こされた。
我々についての秘密は厳しく守られていたので、何度か間違った知らせが入り、一同は外套を着
てバルコニーに出てはまたホールに戻った。
すっかり夜が明けた。
午前5時15分にやっとケレンスキーが現れて出発できると言った。
私たちは2台の車に分乗し、アレクサンドロフスカヤ駅に向かった。
日の出は美しかった。
午前6時10分にツァールスコエ・セローを去った。
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1917年8月14日 皇后からアンナ・ヴィルボヴァへの手紙 

私たちがどこへ行くのか、どれだけ時間がかかるのか、誰も教えてくれません。
でも、あなたと私の仲間が前の夏に行ったあの場所ではないかと思っています。
〔アンナとリリはラスプーチンの故郷トボリスクへ行った〕
我らの聖者と【私たちの友】が、あそこで私達を呼んでいます。
素敵じゃありませんか。
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1917年8月14日 女官 エリザヴェータ・ナルィーシキナ公爵夫人の日記 

皆様が連れていかれた。
朝6時までトランクに腰かけてお待ちにならなければならなかった。
最終的に判明したところでは、御一家はトボリスクへ連れていかれる。
旅程は5日間。
クリミアという話があって、それに応じて荷造りもしていたのに、出発の二日前になって、行き先は南ではないから防寒用の物を持って行く必要があると告げられ、さらに5日分の食糧を準備せよと言われた。
これらの指示のはしばしから、行き先がシベリアだとようやく推測できたのである。
なんという試練、なんという屈辱。

皇帝は顔色がひどくお悪くなり、お痩せになった。
皇后は気丈にも希望を持ち続けておられる!
親愛なる友ラスプーチンの生家の近くに行くのを喜んでおられるのだ。
皇后のメンタリティは何も変わっていない!
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■1917年9月


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コミサール ヴァシーリ・セミョーノヴィチ・パンクラートフの証言

1917年9月2日、私はトボリスク県知事公舎に出向いた。
前ツァーリに「ここでの暮らしはいかがですか?」と尋ねると、
「悪くもない。多少不便なこともあるが、悪くもない」と微笑んで言った。
「薪割をやらせてもらえませんか?私はああいう仕事が好きなので」と急に言い出した。
「指物細工でもおやりになったらいかがですか?あれは面白い仕事ですよ」
「ああいう仕事は好きではない。それよりもここの庭に気を運び入れて、ノコギリをくれるように言ってもらえませんか?」
「明日にでも全部おっしゃったようにしましょう」
「親類縁者たちとの文通はできますか?」
「もちろん。ご家族ともお近づきになりたいのですが」
アレクサンドラ元皇后の英語の発音にはひどい訛りがあったが、子供たちはみな立派なロシア語を話した。
会見が終わった時の私の第一印象は、もしこの一家が際限のない儀式やエチケットを伴う宮廷ではなくて別の環境の中で暮らしてきたら、それぞれまったく違った人間になっていただろうにというものだった。
アレクサンドラ元皇后は例外である。
この人から受けた印象は極めて特異なものだった。
何かロシア女性とはまったく異質なものを即座に感じ取ったのである。

寒気襲来までは物見高いトボリスク住民は前ツァーリ一家がバルコニーに勢ぞろいするのを見ることができた。
晴れた日には家族全員がバルコニーに出た。
誰よりもバルコニーに出ることが少なかったのは元皇帝である。
丸太が運び込まれノコギリが渡されたその日から、彼は昼間の大部分を薪を作る仕事に費やすようになった。
それは彼の大好きな時間つぶしの一つだった。
その肉体的な耐久力と筋力には一驚せざるをえなかった。
元皇帝は極めて頑健で身体を動かすのを好んだ。
時には何時間も庭を歩き回った。
この点元皇后はまったく正反対で、身体を動かすことはほとんどなかったし、人づきあいの面でも元皇帝との違いが目立った。
閉鎖的で一人でいるのを好む性格が目についた。
誇大妄想と優越感を持ったドイツ女性の資質を保持していた。
元皇帝は使用人の一人ひとりと率直に気さくに話し合っているのに、彼女の態度はどこかぎこちなく尊大なものが感じられた。
丸太ひきにもゲームにも決して参加しなかった。

「ところで我々の教会行きも市内散歩も許されないのはなぜです?」
「私には許可する権限がありません。もう少しお待ちください」
ありていに言えば、私は逃亡に類することへの危惧は抱いていなかった。
それよりも一部の連中の側からの襲撃をなんとか未然に防止しようとしていたのだ。
この連中はすでに皇帝や皇后、娘たちにまでとても公開できないようなひどい匿名の投書を送りつけており、私はそれを手許に差し止めていた。
私はかつて一度も読んだことのないようなポルノ的な手紙も読まされる羽目になった。
こういった下品な中傷はすべて元皇后に向けられていた。
正気の沙汰とも思えないこういった手紙をいくつかをコヴィリーンスキー大佐に渡して、
「これがロシアの〈愛国者〉たちの手紙なのですよ」と言った。
クーデターの前 元皇帝がまだ全権力を握っていた頃、これらの手紙の筆者は彼とその家族の前に進んで平身低頭していたに違いないと私は信じている。
ところがその連中が今ではこんないやらしい匿名の手紙を書いて、それが非常に気の利いたことだと思っているのだ。
アメリカにまでそいういう投書マニアがいて、丹念に目を通した上でペチカに投げ入れなければならなかった。

前ツァーリ一家の文通相手はごく少数の近親者に限られていた。
元皇帝は自分の母親と妹クセニアにだけ手紙を出した。
しかし元皇后と子供たちは元皇太后には一度も手紙を出さなかった。
嫁と姑の周知の関係のために、子供たちまでお祖母さんにどこかよそよそしい態度を取っていた。

新聞雑誌の引き渡しにはどんな妨害も加えられなかった。
元皇帝はロシアの新聞の他に、英仏の新聞雑誌を購読していた。
しかし新聞雑誌を読む楽しみが、時には悲しみをもたらすこともあった。
前ツァーリ一家をひどく不安に陥れるような風聞が折りにふれて載るようになったからだ。

子供たちを教えていたのは女官アナスタシア・ゲーンドリコヴァ伯爵夫人、家庭教師エリカテリーナ・シネーイデル、侍医エフゲニー・ボトキン、フランス語教師ピエール・ジリアール、英語教師シドニー・ギブス。
これらの教師陣を観察して、私はビックリした。
どんなことでもできたこの家族が、なぜもっとましな教師を子供たちにつけることをしなかったのだろうか。
フランス語教師と英語教師を除けば他は単なる廷臣に過ぎず、ボトキン博士までもが廷臣のあらゆる資質を身につけてしまっていた。
ゲーンドリコヴァ伯爵夫人とシネーイデルについては今さら言うまでもないだろう。
ごくありふれたことを話しても、子供たちは興味津々で耳を傾けるのだった。
最初私は遠慮しているせいかと思った。
しかしまもなく、知性の発達と教育が実におろそかにされていたことを確認せざるをえなかった。
子供たちの知性の発達がどれほど軽視されていたかがわかるのだった。

あるとき元皇帝が私に女教師をもう一人雇えないかと質問した。
私は一人の女教師を推薦した。
「あなたはその女教師をよくご存知なのですか?」
「よく知っています。それにアレクサンドラ皇后もツァールスコエ・セローで彼女をご存知だったはずです。あそこのギムナジウムで8年間教師を務めていましたから」
「ありがとう。子供の教育の問題はすべてアレクサンドラと二人で決めていますから、彼女とそうだんしなければなりませんが、きっと賛成してくれるでしょう」
新任の女教師クラーヴィジア・ミハイロヴナ・ピートネルが早くも授業を始めた。
「こんなことだとまったく予想していませんでした。あんなに大きくなっているのに、こんなに発達が遅れているとは。みんなプーシキンも読んでないし、レールモントフはもっと読んでないし、ネクラーソフの名前も聞いたことがない。他の作家についてはもう何も申しません。アレクセイはまだ名数もならってないし、ロシアの地理はうろ覚え。いったいどんな教え方をしてたんでしょう。最優秀の教授や教師を呼び集めることだってできたのに、それもやらないで」
翌日ピートネルはネクラーソフの誌が子供たちに圧倒的な感銘を与えたことを語った。
「私たちの国にこんなすばらしい詩人がいたことを、どうして一度も話してくれなかったの?」と皇女たちは言ったという。
「みんな聞き入っていました。元皇帝と元皇后までもがやってきたのです。不思議な話、あの子たちの発達・教育にほとんど配慮が払われてこなかったなんて。普通の貧しいインテリ家庭でも、子供にはこれよりマシな環境を作ってきたものです」
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皇帝の日記

1917年9月7日
小庭園での散歩がつまらなくなった。
当地においては監禁されているという感覚が、ツァールスコエ・セローにおけるよりもはるかに強力である。
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■1917年10月


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1917年10月30日 皇后から女友達への手紙 

ああ、なんという人達でしょう!
志の低い意気地なしばかり。
根性もなく、祖国と神への愛もない。
だから神がこの国に罰を与えておいでになるのです。
聞き分けのない子供を罰する親のような気持ちで、神はロシアに接しておいでなのです。
ロシアは神に対して罪を犯してきましたし、今も神の愛にふさわしい国ではありません。
しかし神は全能で何でもおできになります。
最後には苦しむ者達の祈りを聞き届けて、お赦しになり助けて下さいます。
ゆるぎない信念が必要です。
この世で苦しみが多いほど、あの世ではそれだけ良いことがあるのですから。
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■1917年11月7日 十月革命(旧暦で10月、新暦で11月)


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コミサール ヴァシーリ・セミョーノヴィチ・パンクラートフの証言

このクーデターの情報はとぎれとぎれにトボリスクに届いた。
前ツァーリ一や側近らは、ペトログラードで何が起こっているか新聞で知った。
冬宮の地下倉庫のワインが略奪されたという記事を見て、彼はいらだたしげに私に尋ねた。
「なんのために宮殿を荒らすのだろう。ケレンスキーはなぜ暴徒を抑止しないのだろう。なぜ富の略奪と破壊を見逃すのだろう」
元皇帝は声を震わせ顔面蒼白となり、目には憤怒の光がひらめいた。
どうやら元皇帝にはまったく理解できなかったらしい。
そのとき側近が近づいてきて会話が中断された。
後から私はこれを非常に残念に思った。
進行中の事態を元皇帝がどう見ていたのか、ぜひ知りたかったからである。

勝手気ままな暴徒なる者が生まれたのは昨日のことでもなく今年の話でもなく、その下地を作り育て上げたのは数世紀の官僚体制であり、この体制は遅かれ早かれ大衆を勝手気ままな行動に駆り立てずにはおかなかったのだということを、彼は反省しているのだろうか。
どうやら元皇帝は3月にこの点をよく理解できなかったし、10月の出来事はそれに輪をかけて理解できなかったようだ。
ツァーリと官僚の権力があれほど確固不動のものと見えたこのロシアで、その権力が2,3日で根底から崩壊してしまったのはなぜなのか。
あらゆる専制がたどる運命はこういうものではなかろうか。
歴史にはそういった例が枚挙にいとまがないほどあるのに。

ある日 皇女の一人がこう尋ねた。
「憲法制定会議が私たちみんなを国外に追放するって本当ですか?」
「憲法制定会議はまだ招集されていないし、それがこの問題をどう決定するか誰にもわからないのですよ」
「外国はイヤ。シベリアのどこかもっと遠いところへ送られた方がマシだわ」
「ロシアから出たくないのですか?」
「ロシアに残る方がいいの」
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1917年11月9日 皇帝から母マリア・フョードロヴナ皇太后への手紙

普段私は薪をノコギリで切ります。
今日は新しい薪小屋のため、狙撃兵とともに土地を掘りました。
当地では食料は素晴らしくたくさんあります。
ツァールスコエ・セローとは大きな違いです。
それゆえに私たちは皆トボリスクでは健康回復し、体重が増えました。
私はたくさん読書しています。
英語とフランス語の本を読んでいます
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1917年11月18日 皇帝から妹クセニア・アレクサンドロヴナ大公女への手紙

ママの健康についていろいろ書いてくれたので、私も安心しました。
ママが力を完全に回復して、自分の健康を大事にしてくれればよいと願っています。
ここでの暮らしは航海中の船の中にいるみたいに、どの日も同じようなことばかりです。
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皇帝の日記

1917年11月24日
ペトログラードからまったく新聞が来なくなってから久しい。
電報も。
この困難な時期にひどく不気味。

1917年11月30日
2週間前にペトログラードとモスクワにおいて起きたこと〔ボリシェビキの政権奪取〕に関する新聞の記述を読むの憂鬱である。
動乱時代よりもはるかにひどく恥辱的である。
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■1917年12月


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皇帝の日記

1917年12月1日
ロシアの軍使がドイツ軍陣地へ行き、仮講話条約に調印したというありえない知らせを受けた。
こんな悪夢は予期もしていなかった。
敵により国の多くの地域が占領されたままで、民意を問うこともなく講和締結という秘かな夢を遂行するとは、ボリシェビキとはいったいどういう神経の持主なのか。
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1917年12月12日 皇后から男友達への手紙 

10月革命の事はたくさんの人がすでに、あれは全部ユートピアだった妄想だったと悟っています。
彼らの理想は泥と恥辱にまみれて崩れ去り、ロシアにとって良い事は何ひとつ成し遂げませんでした。
こういった理想家達を、私はかわいそうだとさえ思います。
彼らは自分の事だけを考えて祖国を忘れていたのです。
すべて口先ばかり、騒ぎばかりだったのです。
しかし全国民が堕落したわけではなく、誘惑に負けただけなのです。
非文化的な野蛮な国民。
でも神は我が哀れなロシアのために力を貸して下さるでしょう。
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1917年12月23日 皇后から男友達への手紙 

この国はまだ若いのだから、瀕死の病の後には身体がいっそう丈夫になるように、愛する祖国にも同じことが起るでしょう。
どこにも自分の場所を見いだせないような時もあるものです。
でも私はまだそういう気持ちを味わったことがありません。
神のおかげでいつもなにかしらに忙殺されていました。
我々が国外にいないで、この国とすべての体験を共にしているなんてなんと幸せなことでしょう。
あまりにも長い間私は自分を国の母だと感じてきましたので、この感情はおいそれとは捨てられません。
私と国とは一心同体で悲しみも幸せも分かち合っています。
この国は我々に苦痛を与え、意地悪をし、中傷したりなどしましたけれど、それでもなお我々は国を深く愛し、その病気が治ってくれればいいと願っています。
性質は悪いけれども良い所もある病気の子供みたいに、祖国もまた愛おしいものです。
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1917年12月29日 皇后からアンナ・ヴィルボワへの手紙

兵士どもは私たちの使用人がまだ多すぎると言っています。
アレクセイは天使です。
あの子と私は二人でディナーととりますし、時には階下で他の家族とともに食べることもあります。
クリミアではみな元気だけれど、皇太后はすっかりお歳を召してひどく悲しみ涙もろくなっておられるそうです。
私の実家やイギリスからは何のニュースもありません。
でも私はまだこの国の母親ですから、その苦しみを我が子の苦しみと同様に受けとめ、すべての罪悪や恐怖にもかかわらずそれを愛しています。
皇帝に対する暗愚な忘恩には私の胸は張り裂けるばかりですが、なにびとも母親の心から子供をもぎ取ることはできません。

いつの日にか必ずまたお会いできます。
いつかは神のみが御存知です。
霊の世界は不思議なもの。
私たちの愛は壁をも砕きます。
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◆1916年


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皇后から皇帝への手紙 1916年1月4日

【私たちの友】は絶えず戦争について考え、祈っています。
何か特別な事が起った時には、すぐに自分に伝えるようにと【私たちの友】は言っています。
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■1916年2月2日 5代首相イワン・ゴレムイキンから6代首相ボリス・スチュルメルに交替


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皇后からラスプーチンへの電報 1916年4月22日

身も心もあなたと一緒。
この晴れの日、私とニコライの事を祈って。
愛しています。
キスします。
可愛い女より。
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■1916年9月


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皇后から皇帝への手紙 1916年9月20日

【私たちの友】は、内務大臣にプロトポポフを任命するよう切に願っています。
あなたは彼を御存知ですね。
いい印象をお持ちでしょう。
彼は国会議員です。
だから、あの人達にどう振る舞ったらいいかわかるでしょう。
私は彼に会った事はありません。
でも、【私たちの友】の叡智と導きを信じます。
あなたとロシアに対する【私たちの友】の愛は限りないものです。
あなたを助け導くために、主が【私たちの友】を送って下さったのです。
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皇帝から皇后への手紙 1916年9月22日

私はこの問題をよく考えなければならない。
人に関する【私たちの友】の意見は、時としてきわめて奇妙なものです。
だから慎重にしなければいけない。
とりわけ高い地位に人を任命する場合には。
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■1917年10月1日 アレクサンドル・プロトポポフが内務大臣に就任する


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皇后から皇帝への手紙 1916年10月1日

いつ攻撃をする予定なのか、あらかじめ教えて下さい。
【私たちの友】が特別な祈りを捧げられるように。
これには特別な意味があります。
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皇后から皇帝への手紙 1916年10月4日

ロジャンコやグチコフやその一味、この卑劣漢達は想像よりもはるかに大きな何かの中心になっていて、閣僚達の手から権力を奪い取る事を目的にしています。
私は【私たちの友】に助言を求めましょう。
とてもしばしば【私たちの友】は、他の人達の頭には浮かばないような健全な判断をするのです。
主が【私たちの友】に霊感をお与えになっているのでしょう。
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皇后から皇帝への手紙 1916年10月6日

【私たちの友】は、あなたがブルシーロフらに下した命令についてこう言われました。
「パパの命令には大いに満足ですよ。事態は良くなるでしょう」
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皇后から皇帝への手紙 1916年10月7日

【私たちの友】は、あなたの命令にブルシーロフが従わなかった事で激昂しています。
【私たちの友】は、あなたにこの命令を出させたのは天の導きで、神の祝福があっただろうにと言うのです。
【私たちの友】は、あなたが御自分の決定を貫き通す事を願っています。
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皇帝から皇后への手紙 1916年10月7日

【私たちの友】がひどくがっかりしているという君の電報を、たった今受け取ったところです。
【私たちの友】いは、パパは賢明な手段を取るように命じたと伝えて下さい。
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皇后から皇帝への手紙 1916年10月8日

お願いですから、ブルシーロフに対する命令をもう一度繰り返して下さい。
あなたは自分の意志を押し通さなければなりません。
一国の主なのですから。
そうすれば誰もがひざまずいてあなたに感謝することでしょう。
神の祝福はあなたの計画の上にあります。
どうかそれが遂行されますように。
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皇后から皇帝への手紙 1916年10月10日

私のメモを手元に置いておいて下さい。
【私たちの友】はこうした諸問題について、全部プロトポポフと話し合ってほしいとあなたに頼んでいます。
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■1916年11月 皇帝夫妻とラスプーチンの関係に危機感を抱く皇帝皇后双方の親族が親族会議を開く。
その結果ニコライ・ミハイロヴィチ大公が皇帝を説得することが決まった。


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ニコライ2世の日記 1916年11月2日

ニコライ・ミハイロヴィチが来訪し、昨夜長時間話し合った。

*皇帝は一族の代表が彼に渡した手紙を、そのまま皇后に転送した。
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一族の共同書簡

誰も信用できない誰もが自分を騙していると君はたびたび私に言った。
もしそれが本当なら、それは君の妻の身にも起こっているのだ。
彼女は自分を取り巻く連中に悪意のある大嘘を吹き込まれて誤解している。
君は妻を信じている、それはわかる。
だが彼女の口から出る事は、巧妙な歪曲の結果であって実際に正しい真実ではない。
もし君にこのような影響から彼女を引き離す力がないなら、少なくとも君の愛する妻を通じて行われる絶え間ない干渉や呪文から自分を守るのだ。
私は君に真実を打ち空けるべきか長い間迷っていたが、君の母上と妹御達に説得されてようやく決意したのだ。
君は新しい動乱の時代の前夜にいる。
はっきり言おう、暗殺の前夜にあるとさえ言ってもいい。
私を信じてくれ。
ひとえに君と君の帝位と愛する祖国を、取り返しのつかぬ結果から何としても救いたいと願うからだ。
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皇后から皇帝への手紙 1916年11月4日

私は彼の手紙を読み、怒りで息が詰まりそうになりました。
どうしてあなたは話の途中で、彼をシベリア送りにするそ、これは国家への裏切りと紙一重だからだ、と彼に言ってやらなかったのですか。
彼はいつも私を憎み、22年間私を悪く言い続けてきました。
しかもこんな重大な時期に、あなたのママと妹達の背後に隠れて皇帝の妻を守ろうとする勇気もないなんて、これは卑劣な裏切り行為です。
彼とニコライ・ニコラエヴィチ大公がはあなたの最大の敵です。
妻はあなたの支えです。
妻は石の壁のようにあなたの背後に立っています。
【私たちの友】はニコライ・ミハイロヴィチの手紙を読むとこう言いました。
「この手紙のどこにも主の御慈悲は見当たらない。あるのは悪だけだ。すべては取るに足らない事だ」
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皇帝から皇后への手紙 1916年11月5日

手紙を君に転送して、君の気分を害しひどく怒らせてしまった事が、私には悔やまれてならない。
彼が君の事を何か言い出したら、君の夫が君の擁護に乗り出さぬわけがないではないか。
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皇后から皇帝への手紙 1916年11月12日

これは君主制とあなたの威信にかかわる問題なのです。
これで終わるとは思わないで下さい。
彼らはあなたに忠実な人々を一人ずつあなたから遠ざけ、その後で私達自身を退けようとしているのです。
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ニコライ・ミハイロヴィチ大公の日記 父帝アレクサンドル3世のイトコ

皇帝アレクサンドル3世の時代には、少数の信頼できる人間からなる内密のサークルがあった。
ニコライ2世の場合、23年の統治ののち一人の友人も残さなかった。
親類の中にも、上流社会の中にも。
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■1916年11月23日 6代首相ボリス・スチュルメルから7代首相アレクサンドル・トレポフに交替
トレポフはアレクサンドル・プロトポポフ内務大臣を更迭するなら首相を受けるという条件を出した。
プロトポポフは梅毒が脳に回り、正常な判断を下せる状態ではなかった。
しかし皇后とラスプーチンがが強行にプロトポポフを留任させた。


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皇帝から皇后への手紙 1916年11月23日

君は交代の事をもう知っている頃でしょう。
今どうしてもそれをしなければならないのです。
プロトポポフは良い人間です。
しかし彼は考えがくるくる変わってしまい、一定の意見を守り抜く判断ができないのです。
このような時代に内閣をそんな人物の手に委ねるのは危険な事です。
ただ、お願いだから【私たちの友】を巻き込まないで下さい。
責任を負っているのは私です。
自分で自由に選択したいのです。
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皇后から皇帝への手紙 1916年11月23日

あなたのため、そして私達のために、もう一度思い出して下さい。
あなたには【私たちの友】の祈りや忠告が必要なのです。
プロトポポフは【私たちの友】を崇拝しています。
だから神の祝福もあるのです。
ああ、愛しいあなた、私は神にお祈りしています。
【私たちの友】があなたを正しい信仰へと導き、【私たちの友】にこそ私達の救いがあるという事をあなたが悟るようにと。
お願いですから、どうか私がそちらに行くまで誰も更迭しないで下さい。
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皇后は大本営に乗り込み、皇帝は折れ、プロトポポフを留任させた。


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フランス大使 モーリス・パレオローグ 1916年11月27日

トレポフ首相は「日々ますます精神疾患の兆候をあらわにするプロトポポフとともに統治することができない」と言った。
皇帝は一瞬たじろいで、きつい調子で返答した。
「トレポフ首相、私が適切と考える同僚とともに義務を果たすことを命じる」
トレポフ首相は怒りを抑えながら退出した。
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ラスプーチン暗殺者の一人 国会議員プリシュケヴィチの演説 1916年12月2日

諸悪の根源は闇の勢力である。
この闇の勢力が、本来高い地位に就く事のできない者達をむりやり出世させてやっているのだ。
諸悪の根源は、ラスプーチンによって率いられている勢力なのだ。
私は近頃眠ることもできない。
横になっていると、あの読み書きもろくにできぬ農夫があちこちの大臣に宛てて書いている電報や通知などが頭に浮かぶからだ。
2年半の戦争の間、私は戦時中は国内のいさかいは忘れるべきであると思っていた。
しかし今、私はこの禁を破る。
民衆を戦場に送り出したのは操り人形と化した大臣達だが、その操り人形の糸をしっかりとつかんでいるのはラスプーチンと皇后である。
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■1916年12月


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ラスプーチンから皇帝への電報 1916年12月2日

厚かましくもプリシュケヴィチは罵詈雑言を吐いた。
だが、そんな事は痛くも痒くもない。
神があなた方を力づけて下さるだろう。
勝利はあなた方のものであり、船もあなた方のものだ。
誰もその船に乗る権利は持っていない。
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皇后から皇帝への手紙 1916年12月4日

あなたが君主である事を彼らに見せてあげなさい。
彼らに服従を教えなければなりません。
なぜ彼らが私を憎むのか?
私が強い意志を持ち何かが正しいと確信したら、そして【私たちの友】が私を祝福したら、私が絶対に意見を変えない事を彼らは知っているからです。
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ラスプーチンから皇后への電報 1916年12月5日

信じなさい。
そして、おじけづいてはならない。
自分の帝国を欠ける所のない完全な形で、あなたの息子に渡すのだ。
父親が受け取ったのと同じものを、あなたの息子も受け取ることだろう。
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皇后から皇帝への手紙 1916年12月14日

国会を延期するというやり方は完全にまちがっています。
【私たちの友】が14日に国会を閉会するようにあなたに言ったではありませんか。
ピョートル大帝になりなさい、イワン雷帝になりなさい、パーヴェル1世になりなさい。
忌まわしい事などできぬよう彼らをみな震え上がらせなさい。
私は恐れる事なく愛する私のボーイに書いているのです。
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皇帝から皇后への手紙 1916年12月14日

君の叱責にやわらかく御礼を言う。
私は読みながら笑いを禁じえなかった。
というのは、幼子に諭すように私に言っていたからだ。
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皇后からラスプーチンへの電報 1916年12月15日

まったく手紙を書いてくれない。
ひどくあなたが恋しい。
早く来て。
ニコライのこと祈って。
愛しています。
キスします。
かわいい女より。
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ニコライ2世の日記 1916年12月15日

アンナの家でグリゴリーと話をしながら、晩のひとときを過ごした。

*これがニコライとラスプーチンの最後の別れとなる。
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皇后から皇帝への手紙 1916年12月17日

あなたが君主である事を、すべての人々に見せておやりなさい。
彼らには服従を教えてやらなければならないのです。
あなたは善良で寛容なあまり、連中を甘やかして駄目にしました。
【私たちの友】の祈りと助力に対する深い信仰がもうちょっとあれば、すべてはうまく行くのです!
事態は良くなりつつあります。
【私たちの友】の夢には特別な意味があるのです!
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皇后から皇帝への手紙 1916年12月19日

私達は昨晩、アンナの家で快適に穏やかに過ごしました。
リリも少し遅れからきて、それからマリアもやって来ました。
【私たちの友】は気分がよく朗らかでした。
【私たちの友】は絶えずあなたの事を考えて下さっていて、これからはすべてがうまく行くに違いありません。
支配者になって下さい。
あなたの気丈な妻と【私たちの友】の言うことに従って下さい。
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フランス大使 モーリス・パレオローグ 1916年12月23日

モスクワからやって来た友人が、昨日私のところを訪問して言った。
「モスクワの民衆は皇后に怒っている。あの『ドイツ女』がロシアを滅ぼそうとしている、狂人として始末されなければならないと公然と語られている」
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皇后から皇帝への手紙 1916年12月29日

【私たちの友】は3~4日後にはルーマニアの状況も良くなって、すべてが好転するだろうとおっしゃいました。
国会は2月初めまでに解散しなければならないとトレポフ首相に伝えてください。
【私たちの友】の忠告を信じてください。
もし私たちがあの方の言うことをきかなければ事態は悪化し、逆に言うことをきけば良くなる、子供たちでさえ気がついています。
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■1916年12月30日 ラスプーチン暗殺


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アンナ・ヴィルボワの主治医 ジューク

昼の12時頃マリア・ゴロヴィナから電話がかかってきて、ラスプーチンが外出したまま帰宅していないとのことでした。
アンナはすぐにこの事を宮廷に伝え、ひどく心配し始めました。
そして、絶え間なくペテルブルクと電話で話していました。
アンナは皇后の命令に従って、宮廷に引っ越してそこで寝泊まりする事になりました。
彼女も殺されるかもしれないという恐れがあったからです。
特に危険だからと警戒されていたのが、若い大公達でした。
私は、大公は誰も通してはいけないと命じられました。
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皇后から皇帝への手紙 1916年12月30日

私達はみんな一緒にいます。
【私たちの友】が消えてしまったのです。
昨日彼はアンナに、「ユスポフ公爵から今夜来てくれと言われている。妻のイリナに会う事になっている。車が迎えに来るのだ」と彼女に言ったそうです。
彼の家に迎えの自動車が来ました。
平服の男2人が乗っていて、彼はその自動車に乗って出かけました。
その夜遅く、ユスポフ公爵の家で大変な騒ぎがありました。
大集会で、ドミトリー大公やプリシュケヴィチ議員などが集まり、みんな酔っていたそうです。
警官が銃声を聞きつけました。
プリシュケヴィチが走り出てきて、【私たちの友】が殺されたと警官に叫びました。
ユスポフ公爵は今夜クリミアに発つつもりだそうです。
私は彼を引き留めておくように、プロトポポフ内務大臣に命じました。
ユスポフ公爵は【私たちの友】を家に呼んだ事など一度もないと言い張っています。
どうやらこれは罠だったようです。
私は今でもまだ神の慈愛に頼り、彼はどこかへ連れ去られただけだと思っています。
もう不安で不安でたまりません。
すぐに戻ってきて下さい。
あなたがここにいらっしゃれば、誰もアンナには手出しできないでしょう。
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ニコライ・ミハイロヴィチ大公の日記 1916年12月30日

電話が2本。
一つはトルベツカヤ公爵夫人から、もう一つはイギリス大使ブキャナンから。
昨晩ラスプーチンが殺されたと知らされた。
この思いがけないニュースに仰天し、事の真相を知るために弟のアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公〔フェリックス・ユスポフ公爵の舅〕の家へ車を飛ばした。
「フェリックスの帰宅は遅くなるだろう」と召使が告げた。

ヨットクラブに食事に出かけた。
みなラスプーチンの失踪のことで持ちきりだった。
食事が終わる頃、死んだように青ざめたドミトリー・パヴロヴィチが姿を現した。
トレポフ首相は「すべてたわごとだ」とみなに聞こえるような大声で言い立てた。
ドミトリーは「ラスプーチンは失踪したか殺されたのどちらかではないかと思う」と言明していた。
私はトランプのテーブルに着いた。
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パーヴェル・アレクサンドロヴィチの後妻オリガ・カルノヴィチの日記(ドミトリー・パヴロヴィチ大公の継母) 

1916年12月30日
この夜はツァールスコエ・セローでコンサートが行われる予定だった。
息子ウラジーミル・パーリィが私の部屋に駆け込んできた。
「長老は一巻の終わり。たったいま電話があったんだ。やったぞ!これからはもっと自由に息ができる。詳しいことはまだわからない。いずれにせよ奴は失踪したとのこと。コンサートで何かわかるかもしれないね」
私はその晩のことを決して忘れることができないだろう。
一人としてオーケストラにも演奏にも耳を傾けていなかった。
人々の視線は私たちに対してジロジロと向けられているのに気付づいた。
それがどうしてなのか思い当たらなかった。
とうとう知り合いの1人が教えてくれた。
「この事件の犯人としてユスポフ公爵、そしてドミトリー・パヴロヴィチ大公の名前が挙がっています」
私は心臓が止まった。
コンサートが終るころには、ドミトリーの名前が誰の口にものぼっていた。
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皇后から皇帝への電報 1916年12月31日

あなたが戻ってこられるまで、あなたの名においてドミトリー大公に外出禁止を命令しました。
今日ドミトリー大公は私に会いたいと言ってきましたが、私は拒否しました。
首謀者は彼です。
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皇帝から皇后への電報 1916年12月31日

たった今、君からの手紙を読んだところです。
衝撃を受け、激しい怒りを感じています。
君達とともに祈り、考えている。
明日6時に帰ります。
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ニコライ・ミハイロヴィチ大公の日記 1916年12月31日

次の日もユスポフ公爵に会えないうちに、彼とドミトリー・パヴロヴィチ大公がクリミアに行くということを知った。
しかし噂は一日中やむことはなく、トレポフ首相は電話で「ラスプーチンは殺されたのだろう。そして暗殺の関係者としてユスポフ公爵やドミトリー・パヴロヴィチ大公の名前が執拗に挙げられている」と伝えてきた。
私はのびのびとため息をつき、「あの悪党もこれ以上害をもたらすことはなくなった」と喜びながら、安らかな気分でトランプ遊びを始めた。
午後9時私はクリミアに行こうとしている彼らを訪ね、別れの挨拶をした。
ところがビックリ仰天させられたのは、ユスポフ公爵は駅で憲兵隊に拘留されて自宅軟禁になってしまった。
午後10時半にユスポフ公爵から電話がかかってきて、そういうことなので自分の家に来てほしいと言う。
彼はベッドに横になっていたが、1時間半ほど彼の告白をじっくり聞いた。
私は彼の話を黙って聞いて、彼に言った。
「そんなお話じゃちょっとでも批判されたらお終いじゃないか。殺したのはお前なんだろう?」
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パーヴェル・アレクサンドロヴィチの後妻オリガ・カルノヴィチの日記(ドミトリー・パヴロヴィチ大公の継母)

1916年12月31日
夫は皇帝とお茶を飲み、平穏と至福の表情が陛下の顔に浮かんでいる事に驚いた。
陛下がこんな風に昂揚した気分になるのは久しくない事だった。
陛下はあまりにも妻を愛しておられたので、妻の願いには背くことができなかった。
だから、運命のおかげで自分から行動する必要から解放されて幸せだった。
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◆1915年

■1915年1月

●1915年1月15日 アンナが列車事故で重傷を負う


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ニコライ2世の日記 1915年1月15日

今日6時、列車の衝突事故があったという報告を聞いた。
犠牲者の中にアンナがいて気の毒にも重傷を負い、10時15分ころ宮内病院に収容された。
11時に見舞いに行った。
彼女の両親も一緒にいた。
やがてグリゴリー〔ラスプーチン〕が到着した。
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ニコライ2世の日記 1915年1月22日

夕食後、グリゴリーがアンナの所から私達の所へ来てお茶を飲んでいった。
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皇后から皇帝への手紙 1915年1月26日

アンナは自分の家に帰りたがっています。
でもあなたはこれからはあまり頻繁に見舞いに来れないという事も彼女にはっきり言うべきです。
もし今あなたがはっきりした態度をお見せにならないなら、クリミアであったような恋愛劇やスキャンダルを再び繰り返す事になるのですから。
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皇后から皇帝への手紙 1915年1月27日

アンナは快方に向かっています。
彼女はまた家に帰りたいと言っています。
そうなったら、私達の生活がめちゃくちゃになる事は目に見えています!
彼女は自分がすっかり痩せたと思い込んでいますが、彼女は巨大なお腹と脚をしていて(しかもまったく見てくれが良くないのです)
顔色はいいし頬はあいかわらず脂ぎっていて、目の下がたるんでクマができています。
しかし、ああ神よ、あの彼女の、特に1912年の秋から春にかけてのあの醜悪な振る舞い以来、彼女は私からどれほど隔たってしまった事でしょう。
以前のように彼女に対して自由になれないのです。
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ニコライ2世の日記 1915年2月20日

夜にグリゴリーがやってきて座っていた。
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ニコライ2世の日記 1915年03月12日

アンナを訪ね、グリゴリーと30分一緒だった。
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皇后から皇帝への手紙 1915年4月5日

医師がアンナを馬車で連れて行きました。
明日には私の所に来るつもりです!
ああ神様、私の方は彼女から永遠に解放されたと思って大喜びしていたのです。
私はすっかりエゴイストになってあなたを独占したいと思っていますが、またもや彼女はあなたが戻るたびに、私達をしょっちゅう悩ます事でしょう。
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アンナ・ヴィルボワの女中 マリア・ペリャーエワ

1915年5月の事ですが、アンナは朝9時から10時の間に目を覚まし、診察所へ出かけて昼の1時か2時までおり、その後は皇后の所へ出かけ5時までそこに残ってました。
昼食の後には必ず皇后の所へ出かけ、その後は12時まで残っていました。
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アンナ・ヴィルボワの主治医 ジューク

アンナは毎日宮廷に赴き、昼は3時から5時まで、そのご夜は9時半から12時や1時までいました。
しかし皇帝がお帰りになっている時には、アンナは夜の時間には皇后を訪問しませんでした。
手紙のやりとりも頻繁で、私が晩にアンナを宮廷から彼女の家に送り届けると、もうすでに皇后から手紙が来ている事さえありました。
さらにはアンナが寝る支度をしている間にも。
時には2~3回ほど手紙を交わしている事もありました。
ラスプーチンは頻繁にアンナの家に来ました。
そんな日はたいていアンナの家に皇帝一家が勢ぞろいしたものです。
皇帝と皇后、子供達です。
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■1915年05月

皇帝がモギリョフの大本営に常駐するようになる。


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皇后から皇帝への手紙 1915年5月20日

あなたに【私たちの友】の杖をお送りします。
【私たちの友】がしばらく使っていましたが、祝福の印としてあなたにお送りするそうです。
私は、ムッシュー・フィリップの杖とこの杖があなたの部屋で一緒になるのがとてもうれしいのです。
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■1915年6月


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皇后から皇帝への手紙 1915年6月29日

サマーリンの事に関しては、私は悲しいどころの騒ぎではありません。
彼女はエリザベータ・フョードロヴナ大公妃〔皇后の姉〕の不品行で偽善的な取り巻きの一人ではありませんか。
【私たちの友】を誹謗するゴシップが広まっていて、すべてが悪い方へ向かっています。
これはエリザベータの差し金であり、朝から晩まで尾行されているのです。
サマーリンは反ラスプーチンの立場なのですから、私達にも敵対してくるでしょう。
御存知のとおり私はニコライ・ニコラエヴィチ大公をまったく信用しておりません。
私は彼がまったく賢明でないのを知っていますし、ひとたび神の人の敵になったからには彼の仕事がうまくいくわけはありませんし、
彼の意見も間違ったものである事を知っています。
いやまモスクワの一味が、私達をクモの巣にかけたかのようにがんじがらめにしています。
【私たちの友】の敵は私達の敵です。
【私たちの友】に対する一切の陰謀やゴシップをお禁じになるという事をはっきりとあなたからおっしゃって下さい。
ロシアの君主が神の人の迫害をお許しになるなら、ロシアには決して神の祝福はないでしょう。
彼らは私の影響力を恐れているんですわ。
私が強い意志を持ち、他の誰よりも彼らの魂胆を見抜き、あなたが確固とした態度をお取りになれるように手助けできる事を彼らは知っているからですわ。
この事はあなたの親族も感づいているので、彼らはあなたがお一人の時にあなたに近づこうとしているのです。
あなたがここにいて下さったら、全力を振り絞ってあなたの御考えを変えて見せますのに。
あなたの妻があなたの助け手になる事、これは私の意志というより神がお望みになる事なのです。
グリゴリーはいつもそう言っていますし、フィリップも同様です。
私はタイミングよくあなたに警告して差し上げる事ができるでしょう。
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ロシア在住フランス大使 パレオローグ

モスクワで6月に混乱が起こった。
かの有名な赤の広場で群衆が皇室を糾弾し、ラスプーチンを絞首刑にせよ、皇后は剃髪させて修道院に送れ、皇帝は退位してニコライ大公に譲位しろ、などと要求した。
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■1915年7月

憲兵隊隊長ジェンコフスキーはモスクワ騒乱のついて報告するよう皇帝から呼び出された。
ジェンコフスキーはモスクワ騒乱の報告とともに、丸1年にわたるラスプーチンの尾行記録を見せた。


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憲兵隊隊長 ジェンコフスキー

皇帝陛下は私の報告中は一言も口をはさまれませんでしたが、その後こうお尋ねになりました。
「この件は記録されていますか?」
私は書類をカバンから取り出すと、陛下はそれを手に取り書き物机のフタを開けて中に書類をしまいました。
私は「ラスプーチンの行動はきわめて危険で、ロシアを破滅に導こうとする集団の道具になっているに違いないと思われます。問題は深刻です」と申し上げました。
対して陛下はこうおっしゃいました。
「この報告の事は私と貴職だけ、つまり私達の間にだけとどめるよう配慮したもらいたい」
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皇后から皇帝への手紙 1915年7月5日

私の敵ジェンコフスキーが卑劣な汚らわしい書類を見せました。
総司令部では皆が【私たちの友】と関係を断ちたいと思っているのです。
なんと忌まわしい事でしょう。
もし私達が【私たちの友】を迫害すれば、私達と私達の国すべてが苦しみを受ける事になります。
ああ、私の愛しい人、あなたはいつになったら拳で机を叩き、ジェンコフスキーや他の者を怒鳴りつけて下さるのですか?
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皇后から皇帝への手紙 1915年7月8日

ああ、私のあなた、物事があるべき方向に進んで行かないのです。
なぜなら粗暴な助言であなたを感化しようとして、ニコライ・ニコラエヴィチ大公があなたをそこから放そうとしないのですから。
ニコライ・ニコラエヴィチは、【私たちの友】に導かれた私があなたに影響を与える事を恐れているのです。
私の大切な人、あなたは彼に皇帝であるのは自分である事を思い出させなければいけません。
御自分には御自分の意志があり、ニコライ・ニコラエーヴィチや彼の参謀の支配下にはないという事をお示しになるべきなのです。
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■1915年8月


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秘密警察の記録 1915年8月13日&8月14日

ラスプーチンがツァールスコエ・セロを訪問。
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シャチルバトフ公爵

ラスプーチンはニコライ大公罷免の前に3日間ツァールスコエ・セロに来ていました。
意志薄弱な性格の皇帝は、ストルイピンであろうとニコライ大公であろうと、あまりに大きな役割を果たす人物すべてを恐れていたのでしょう。
自らが最高司令官におなりになるという御決断を、人々は皇后とラスプーチンの影響力によるものだと理解していました。
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■1915年9月

●1915年9月5日 皇帝はニコライ・ニコラエーヴィチ大公を罷免する。


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マリヤ皇太后の日記 1915年9月3日

私の言葉はすべて虚しかった。
これはもう私の理解を超えている。
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皇后から皇帝への手紙 1915年9月4日

ニコライ・ニコラエーヴィチ大公との謁見は快いものとはならないでしょう。
あなたは彼の事を信用していらっしゃったのですから。
しかし今や【私たちの友】が数ヶ月前に言ったこと、つまりニコライ・ニコラエーヴィチがあなたとあなたの国とあなたの妻に対して誤った接し方をしているという発言の正しさをあなたは確信しておられます。
神はあなたとともにおられ、【私たちの友】もあなたの後ろについています。
ですから時が経てば、誰もがあなたが国を救って下さったと感謝する事でしょう。
ニコライ・ニコラエーヴィチ大公を利用しようとしていた左翼の者どもの陰謀が白日の下にさらされたのですから。
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皇后から皇帝への手紙 1915年9月5日

謁見の前には必ずグリゴリーの櫛で髪の毛を梳かす事をお忘れにならないで下さい。
この小さな櫛が助けをもたらしてくれますから。
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アンドレイ・ウラジミーロヴィチ大公の日記 父帝アレクサンドル3世のイトコ 1915年9月6日

皇太后を訪ねると、彼女はすっかり気落ちしてふさぎこんでいた。
ニコライ・ニコラエーヴィチ大公を遠ざけた事は、皇帝を避ける事のできぬ破滅に導くと彼女は考えていた。
「私達はどうなるの?私達はどうなるの?」と彼女はしきりに尋ねた。
「これはみな皇后がやった事です。今起こっている事のすべての責任は、彼女一人にあるのです」
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皇帝から皇后への手紙 1915年9月7日

私は繰り返し祈り、何度も君の手紙を読み返して過ごした。
ニコライ・ニコラエーヴィチ大公は悪びれずさばさばした顔で入ってきて、単にいつ立ち去れとの命令かと尋ねただけだった。
私も同じような調子で、2日間留まってよいと答えた。
お陰ですべてが過ぎ去った。
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皇后から皇帝への手紙 1915年9月12日

グチコフを早く片付けてしまうべきなのでしょうが、どうやって片付けるか。
戦時下でもあるし、なにか彼を投獄する根拠となるような事を考え出すわけにはいかないでしょうか。
なぜって彼の陰謀や演説、非合法活動を見るのは本当に不快なのですから。
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皇后から皇帝への手紙 1915年9月20日

宗務院総裁サマーリンは、ヴァルナワがあなたのもとに赴きグリゴリーに関するすべての真実を告げるように望んでいます。
彼はひたすら【私たちの友】を迫害しています。
これは私達への攻撃なのです。
ここにあなたのために、サマーリンのポストへの候補者となりうる者達の名前のリストがあります。
(残念ながら、そんなに多くはないのですが)
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皇后から皇帝への手紙 1915年9月21日

他の者はすべて追い払って、ゴレムイキンに新しい大臣を指名させて下さい。
鈴のついて私のイコンが、人を見分けるすべを教えてくれたのです。
もし彼らが悪しき意図をもって私の所に来たのなら、きっと鈴が鳴りだして彼らをさえぎってくれたことでしょう。
あなた、愛しい人、どうか私の助言に耳を傾けて下さい。
これはあなたを助けるために私に与えられた特殊な本能なのです。
【私たちの友】の電報です。
『9月8日、恐れるなかれ。過ぎしより悪くはならじ、信仰と御旗が汝を慈しむ』
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皇后から皇帝への手紙 1915年9月22日

彼の電報を別の紙に書き写しましたか?
『試練において消沈するなかれ。御自分の姿もて主が祝福を送らん』
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皇后から皇帝への手紙 1915年9月23日

【私たちの友】は折よくニコライ・ニコラエーヴィチ大公を追い払い、自ら軍の指揮を執るべきであると説得して下さった事で、あなたをお救いになったのです。
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皇后から皇帝への手紙 1915年9月24日

宗務院総裁サリーマンは愚かな恥知らずです。
即座に彼をクビにして下さい。
それから内務大臣シチェルバトフも同様です。
お願いですから、彼のポストにフヴォストフを任命なさって下さい。
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皇后から皇帝への手紙 1915年9月27日

私が公務に手を出している事に腹を立てている者もいます。
しかし、あなたを助ける事は私の義務です。
それはたとえ、世間や大臣が私の事を弾劾しようともです。
まったく世の中は筋の通らぬものです。
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皇后から皇帝への手紙 1915年9月28日

閣僚会議の前に、例の小さなイコンを手に取り、彼の櫛で髪を梳かすのをお忘れにならないで下さい。
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■1915年10月

●1915年10月09日 宗務院総裁サマーリンが罷免される。フォブストフが内務大臣に就任する。
●1915年10月11日 ベレツキーが警察局長官に就任する。


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皇后から皇帝への手紙 1915年10月3日

ベレツキーは万事を知り尽くしているので、内務大臣にとって非常に有益な人間になりうるだろうと思います。
【私たちの友】の妻がやってきました。
マスコミが書き立てている誹謗中傷やゴシップのせいで、【私たちの友】がひどく悩まされていると言っています。
こうした事に終止符を打つべき時です。
フヴォストフとベレツキー、彼らこそそれを遂行する事ができます。
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皇后から皇帝への手紙 1915年10月19日

あなたに牝牛〔アンナ〕からの分厚い手紙をお送りいたします。
この恋情に満たされた生き物は、自らの愛をすべて注ぎだしてしまわねば気が済まないのです。
放っておけば破裂してしまったでしょう!
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■1915年11月


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皇后から皇帝への手紙 1915年11月16日

フヴォストフが私に、あなたの秘密の行軍ルートの地図を持ってきました。
このことは一言たりとも他言いたしません。
ただ【私たちの友】にだけは伝えます。
彼が至る所であなたを守ってくれるように。
私が思うに無駄な事ですが、アンナは政治的役割を演じたいと思っているようです。
彼女はあまりにも傲慢かつ自信過剰で注意力に欠けます。
【私たちの友】は、彼女が私達のためだけに生きる事を望んでいます。
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皇后から皇帝への手紙 1915年11月19日

ねえ、あなた、【私たちの友】は、今度は私がゴレムイキン首相に会ってすべてを話すのが一番よいと考えています。
スキャンダルでやめさせられるよりは、あなたの願いに応じてという形で自分から身を引かせる方がよいでしょう。
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皇后から皇帝への手紙 1915年11月20日

大切な天使、ルーマニアに関するあなたの御計画について【私たちの友】が大変知りたがっています。
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皇后から皇帝への手紙 1915年11月23日

【私たちの友】は夜中に幻視を体験して、そこにすべての都市や鉄道などが出てきたのです。
【私たちの友】の幻視を伝えるのは難しいのですが、【私たちの友】はこれはきわめて深刻な話だと言っています。
【私たちの友】が言うには、あなたは小麦粉・バター・砂糖を乗せた列車を走らせるようお命じにならなければなりません。
現時点においては、弾薬や肉よりもこれらの品物の方が断然欠かせないのですから。
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ラスプーチンの信者&歌手 アレクサンドラ・ベリング

ラスプーチンに初めて会ったのは、1915年11月だった。
アレクサンドル・ピストリコルスの妻サナ〔アンナの妹〕は大変美しい女性で、
まるで陶器のような顔立ちをしていた。
甘やかされたわがままな子供のような魅惑的な印象を人に与えた。
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■1915年12月


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皇后から皇帝への手紙 1915年12月22日

【私たちの友】はあなたがニコライ・ニコラエーヴィチ大公の地位を奪わなければ、帝位から追い落とされるであろうと言っていましたね。
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好奇心からラスプーチンに会いに行った女性作家 ヴェーラ・ジュコフスカヤ

1915年末のラスプーチンのサロンの様子は、サモワールが沸き立っているそばには灰色の看護服を着たアキリーナがぐったりとしていた。
彼女の横にはマリアがいて、私をソファの隅に押し付けているラスプーチンを柔和な崇拝の表情で見つめていた。
シェホフスカヤ公爵夫人がやってきた。彼女も看護婦の服を着ていた。
「あんまり疲れたものだから一眠りしたいと考えていたのだけど、こうしてあなたの所に来てしまったわ」
「まあ、いい子にするんだ」とラスプーチンは言った。
「大した御馳走だ」と言って彼は彼女の襟元から手を突っ込んで、胸を撫でた。
そして彼女の膝を抱きしめ、目を細めながら付け加えた。
「精神はどこにあるか知ってるかね?ここにあるんだ」
そう言ってラスプーチンは彼女の服の裾をまくった。
「ああ、扱いにくい連中だ。いいか、言うことを聞くんだ。このカマトトめ」
「私はすぐにお家に帰りますわ」と公爵夫人はラスプーチンの肩に頭をもたれさせながら甘えて言った。
公爵夫人は接吻してもらうために顔を差し出しながら甘えた声で頼んだ。
「だっておわかりでしょう、神父様!」
「よしよし、いい子だ」とラスプーチンは彼女の胸をもみながら優しい声で答えた。
「欲しくなったんだな」
このような事はいつも私を驚かせた。
どうしてここではすべてが恥ずかしくないのだろうか。
あるいは、ここではすべてが特別なのだろうか。
ここでは甘やかされた貴族の女達が、薄汚れた初老の農夫の愛撫を待っていた。
怒りもせず嫉妬もせずに、おとなしく順番を待っているのだった。
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