初代大韓帝国皇帝高宗の主要な子供たち

●前妻閔妃の子 李坧 2代皇帝 純宗
●側室張氏の子 李堈 義親王→庶子は李鍵・李鍝
●後妻厳妃の子 李垠 英親王
●側室梁氏の子 徳恵翁主

日韓併合により韓国皇室は、王族と公族になり日本の皇族に準ずる待遇を受けた。
李鍝は公族として扱われた。


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◆李鍝公 李堈公の庶子/李垠王の甥
1912-1945 大正01-昭和20 32歳没

*父のイトコ李埈公/李埈鎔の養子となる

*幼少期に来日し、学習院を経て陸軍士官学校を卒業、軍人となる。

*軍へ出勤途中、広島の原爆で戦死



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■妻  朴賛珠 朴泳孝侯爵の孫 
1914-1995 大正03-平成07 81歳没

*学習院出身

*李鍝は妻子を本国に疎開させていたため、妻子は本国で終戦を迎え以降祖国に留まった。





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●男子 李淸
●男子 李淙


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枢密院議長 倉富勇三郎男爵 日記

※倉富は李垠王家の相談役も務めていた。

大正11年9月11日

小山善が李鍝公を診察したるに、腺病質にて神経鋭く体質はよろしからず、充分摂養する必要ありと言いおれり。

李垠王付事務官 高義敬の談

李鍝公の歳入は不動産純収入5万円・有価証券の収入2万円・他に3万円・計10万円なり。
李堈公は何も無し。
1ヶ月の使用金が1000円なる由なるが別邸7,8戸もあり、なかなか1000円にて足るものにあらず。
多々借金しおるとの事なり。
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宗秩寮総裁 木戸幸一侯爵 日記

1933年10月7日

李王職長官篠田治策の言葉

李鍝公は従来より軍人となるを好まず、朝鮮に在住したき希望あり。
これは食い物にせんとする親類連の策動によるところ多きためならん。
李鍝公は責任当局を除外し朴泳孝侯爵の孫娘朴賛珠と朝鮮式の結納まで取り交したるが、これは勅許を経ざる以前の行為なれば取り消さしめたり。
父李堈公はこの結婚には反対なり。
朴賛珠が庶子なること、父親が肺病にて死したることが主なる理由なり。
なお朴泳孝が内務大臣の時、李堈公を謀殺せんとしたる陰謀事件あり。
両者は円満なる関係にあらず。

1934年3月26日
李鍝公の配偶問題に関し、湯浅宮内大臣・大谷宮内次官と相談の結果、朴泳孝侯爵の孫娘を候補者として進行方につき、篠田治策長官あて電報を発す。

1934年5月3日
篠田治策長官来庁、李鍝公の件につき打ち合す。
李家の態度はあいかわらず朝鮮式にて変節常なく真意捕捉しがたきは誠に困ったものなり。

1934年6月1日
朝鮮総督宇垣大将来庁。
李鍝公配偶の問題は篠田長官と同意見なるむね話あり。

1935年4月17日
李鍝公結婚の勅許あり。

1935年5月3日
李鍝公邸に参入、李鍝公殿下の御結婚式に参列す。

1935年5月13日
霞が関離宮において李鍝公御結婚御披露の晩餐会あり、出席す。
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